南宋を第三代でつまずかせた悪女と称される李鳳娘。画像は『宋光宗后坐像』(出典:作者不詳)、宋代、故宮博物院(台北)
小都市並みの規模を持つ巨大な密室、後宮。イスラム文化圏のハレムなどと違い、中国的な後宮は、中国の歴代王朝にしか存在しない。そして王朝の永続のために、その制度は改良され続けた。後宮を舞台としたアニメ『薬屋のひとりごと』が人気を博すなど、さまざまな作品でも描かれてきた。3000年以上も存続した後宮は、中華帝国の本質を映し出す国家システムだ。中国史に詳しい明治大学の加藤徹教授は、新著『後宮 宋から清末まで』で、その後宮を軸にした中国史に迫った。
(*)本稿は『後宮 宋から清末まで』(加藤徹著、角川新書)の一部を抜粋・再編集したものです。
悪女・李鳳娘
世襲政権の永続性は三代目で決まる。鎌倉幕府は三代将軍の源実朝が暗殺され、源氏将軍が絶えてしまった。室町幕府と江戸幕府は、三代将軍にそれぞれ足利義満、徳川家光という個性の強い人物を得て、長く続いた。
江戸幕府は三代目の徳川家光の治世によって、その先も長く続くことになった(提供 :akg-images/アフロ)
南宋は、第三代でつまずいてしまう。
第二代の孝宗は4人の男子をもうけたが、できのよい3人は若くして亡くなり、健康も頭脳も性格も悪い三男だけが生き残った。孝宗はやむをえず、暗愚な三男に譲位した。これが第三代の光宗(在位、1189年─1194年)である。
光宗は即位したとき、すでに43歳だった。その慈懿皇后(じいこうごう)李氏こと李鳳娘(り ほうじょう、1145年─1200年)は、南宋の後宮では珍しい「悪女」だった。
正史『宋史』后妃伝によると、李鳳娘は、南宋の武将・李道の娘で、生まれたとき、李道の陣営の前の岩のうえに「黒鳳」が群がるという奇瑞(きずい)があったので、李鳳娘と名付けたという。「黒鳳」は黒鳳蝶(くろあげは=蝶の一種)ないし黒鳳鶏(全身が黒いニワトリ)を指す。中国では、鳳凰は皇后の象徴でもある。黒い鳳凰、は後の彼女を暗示している。
李道が湖北に赴任したとき、皇甫坦(こうほ たん=姓は皇甫、名は坦)という道士の人相占いはよくあたる、という評判を耳にした。そこで自分の娘たちの人相を坦に見てもらった。
娘たちがお辞儀をしたところ、坦は李鳳娘を見て驚き、お辞儀を辞退して「娘さんは将来きっと天下の母(皇太后)になられるでしょう」と述べた。坦は、それを初代の高宗に言上する。皇甫坦は名医でもあり、以前、高宗の母親である顕仁皇后の目を治療し、信頼を得ていたのだ。
高宗は、孫の趙惇(ちょう とん、後の第三代皇帝・光宗)に、李鳳娘をめあわせた。彼女のほうが2歳、年上だった。
1168年、彼女は数え24歳で嘉王(後の第四代皇帝・寧宗)を産み、1171年には皇太子妃となる。
李鳳娘は嫉妬深く、攻撃的な性格だった。夫の側近の悪口をいつも高宗や孝宗に言い立てた。義理の祖父である高宗は苦い顔をして、皇后の呉氏に「この女は武の血筋だ。わしは皇甫坦に騙された」とこぼした。義父である孝宗もしばしば李鳳娘に「皇太后(高宗の憲聖慈烈皇后呉氏)を見習いなさい。さもないと、ゆくゆくそなたを皇太子妃から廃するぞ」と説教したほどだ。
ところが、李鳳娘は反省するどころか、これは呉氏のさしがねに違いない、と疑った。
