異常な嫉妬深さ、側室の暗殺も

 趙惇が即位すると(以下、光宗と呼ぶ)、皇太子妃の李鳳娘も皇后にくりあがった。光宗は暗愚で病弱だったため、上皇となった孝宗は引き続き実権を握った。

 宮中の内宴のとき、李鳳娘は孝宗に「早く嘉王を皇太子に立ててください」と頼んだ。孝宗が断ると、彼女は「私は、婚姻の六礼(りくれい)にのっとり輿入れした正妻です。嘉王は、その私が産んだ子です。なぜだめなのですか」と食い下がり、孝宗を激怒させた。

 李鳳娘は退出したあと、嘉王の手を引いて泣きながら光宗に「上皇さまは、私たちを廃立なさるお気持ちです」と讒言(ざんげん)した。光宗は、父である上皇と会わなくなる。

 李鳳娘の嫉妬深さは異常だった。ある日、光宗が宮中で手を洗ったところ、盆を捧げてアシストする宮女の手が真っ白で美しく、光宗は喜んだ。後日、光宗のもとに李皇后から重箱が届いた。光宗があけると、中には宮女の両手が入っていた。

 光宗には、皇太子時代から黄氏という側室がいた。光宗の即位後、李鳳娘は皇后に、黄氏は貴妃となった。光宗が即位して3年目の冬、1191年の旧暦11月。光宗は郊祀の儀式で天地を祭るため、斎宮にこもった。そのすきに李鳳娘は黄貴妃を殺し、「突然、亡くなりました」とだけ報告した。

 その夜、風雨がはげしく吹きつのり、郊祀の祭壇である黃壇の灯火がみな消え、儀礼ができなくなったという。

 光宗のその他の寵妃たちは、李鳳娘によって民間に嫁がされ、宮中から追い出された。

王と上皇の絆を断ち切る李鳳娘

 病弱だった光宗の健康は、黄貴妃の死をきっかけに、劇的に悪化していく。朝廷に出て政務を執ることもできなくなった。政務の多くは李鳳娘が決裁するようになった。

 李鳳娘は、実家の家廟(かびょう、歴代の位牌を祭るみたまや)の衛兵の人数を、宮中の太廟のそれより多くしたり、自分の身内や係累を取り立てたりした。親属26人、李氏の家来172人が登用され、李氏の食客までが官に補せられる。

 上皇となった孝宗と、光宗の溝は深まる一方だ。光宗は長いあいだ、上皇のもとに伺候せず、臣下や侍従は心配して諫めた。

「親子の情は天の摂理でございます。上皇さまの陛下に対する愛情は、陛下の嘉王さまに対する愛情と同じです。上皇さまはご高齢です。おそれながら、もし万一のことがあれば、陛下は天下に顔向けができなくなりましょう」

 光宗は反省して上皇のもとに行こうとしたが、李鳳娘が皇帝と百官を押しとどめて行かせない。

 1194年、上皇の孝宗は崩じた。息子の光宗は、体調不良と李鳳娘の横車により、父の葬儀も服喪もちゃんと執り行えぬていたらくだった。