食うに困り、托鉢僧をやめて反乱軍に
朱元璋は1328年、安徽省鳳陽県(あんきしょう ほうようけん)の貧農の家に生まれた。彼は日本の豊臣秀吉と似ている。秀吉も農民出身で、出世するたびに名前を立派なものに変えた。朱元璋も「元璋」という立派な名前を名乗ったが、もとの名前は朱重八(じゅうはち)だった。八男坊だったらしい。
もともと安徽省鳳陽県は貧しい土地だった。彼が数え17歳のとき、両親や兄たちは凶作のため衰弱死して全滅してしまう。身寄りを失った朱元璋は寺に入り、経文を読むための最低限の読み書きを覚え、托鉢僧となった。
托鉢といえば聞こえがよいが、実際はホームレス同然の漂泊生活だ。彼はもともと独特な面構えだったが、栄養不足と苦労のせいで、ますます荒んだ顔になってしまった。
当時、モンゴル人の元王朝は、漢族に対して圧政を行っていた。民衆の不満は爆発し「紅巾の乱」が起きた。戦乱の時代、托針僧に食をめぐんでくれる余裕のある人はいない。
24歳の朱元璋は、生きる道に迷った。彼は天涯孤独だった。相談できる家族も、師も、仲間もいない。彼が自分で運命を占うと、反乱軍に加われば吉、という結果がでた。そこで僧をやめ、地元の反乱軍に身を投じることにした。
世間は残酷だ。本当に信じられるのは自分だけだ。それが彼の信念になった。
反乱軍の頭目は、郭子興(かく しこう)という名の任俠肌の親分だった。郭子興は朱元璋の顔を見て「てめえみたいな面構えは見たことがねえ」と興味をもち、身近に置いて重用し、自分の養女をめあわせた。これが後の馬皇后である。
皇后の模範、馬皇后
馬皇后は朱元璋より4歳若い1332年の生まれだった。姓は馬だが、名前は不詳。民間の芝居や小説では彼女の名を秀英とするが、歴史的根拠はない。ここでは彼女が皇后になる前にさかのぼって馬皇后と呼ぶことにする。
彼女の父親は殺人犯だった。馬公という名前が伝わっているが、「公」は男性に対する敬称にすぎない。事実上、馬皇后もその父親も本名不詳である。馬公は、詳細は不明だが、人を殺した。
逮捕や復讐を逃れて逐電し、田舎の親分である郭子興のもとに身を寄せた。任俠肌の郭子興は、馬公と意気投合する。年代は不明だが、馬公は早く亡くなり、馬皇后は郭子興の養女となった。
馬皇后の出自は低かったが、彼女は頭も性格も良く、夫である朱元璋を支えた。
反乱軍に身を投じた朱元璋は一時期、親玉の郭子興から疑われ、迫害されたことがある。たまたま飢饉の年で、朱元璋は十分な食事を与えられず、いつも飢えていた。
馬皇后はこっそり餅を焼き、懐にしのばせて朱元璋のもとに運び、食べさせた。餅は熱く、馬皇后は胸にやけどを負ったが、夫は生きながらえることができた。そんな夫婦だった。
朱元璋は戦乱を勝ち抜き、明の初代皇帝、太祖洪武帝にのぼりつめる。彼は建国の功臣たちも信用せず、独裁政治を行った。それまでの皇帝は、今の総理大臣にあたる宰相を置いて政治をするのが普通だった。
しかし、洪武帝は宰相を廃止して、自分が直接に各省庁を監督し、政治のすみずみにまで目を光らせた。よほどエネルギッシュで有能な皇帝でないとできないことだが、疑い深い洪武帝にはそれができたのだ。