世の中「回り持ち」
■落語『百年目』のあらすじ
本当はかなりの遊び人なのに、大旦那には堅物(かたぶつ)で通っていた番頭が、たくさんの芸者などを引き連れて向島で盛大に花見を楽しんでいた。そこで、運悪く友人と花見に来ていた大旦那と鉢合わせしてしまう。
番頭は一気に酔いも醒め、ひれ伏して「長らくご無沙汰をいたしました」と言う。大旦那はやんわりとやり過ごして別れるのだが、番頭は完全に信頼を失ったと思いクビを覚悟する。店に戻ると、番頭は仮病を装い、すぐ夜逃げしようかと案じているうちに朝が訪れた。
翌日、大旦那に呼ばれ番頭が覚悟を決めて会いに行く。すると大旦那はこう、番頭を諭す。
「栴檀(せんだん)という立派な樹木の根本に南縁草(なんえんそう)という汚い草が生えていた。それを刈ってしまったら南縁草もしおれてしまった。世の中は、お互い様、回り持ちということで、栴檀の檀と南縁草の南が『だんなん』になり『旦那』となった。つまり旦那も偉そうにしているが回り持ちなのだ」
昨日の花見での失態を詰問するどころか、おおらかに番頭の普段の働き振りを激賞する。恐縮する番頭に「それはそうと、昨日あのとき何で『長らくご無沙汰しています』と言ったんだい?」と問うと、「堅いと思われていたはずの私があんな場所でお会いしたものですから『ここで会ったが、百年目』と思いました」。
Switch2とも米騒動とも、一見すると全く関係のない話ですが、注目してほしいのは旦那が番頭を諭した「世の中は回り持ち。相手あってこその関係性の上に成立している」という、社会に対する眼差しです。それが、転売ヤーやら米騒動やらでギスギスした世の中への「警句」になっているのではと私は思うのです。
落語には、こうした視点が数多く出てきます。『箱根山 駕籠に乗る人、担ぐ人そのまたわらじを作る人』というフレーズもありますね。「いろんな人の働きによって世の中は成立しているんだよ」ということをさりげなく詠んだ文句です。
私たちの主食であるお米の話に当てはまれば、米を作る人、運ぶ人、店で売ってくれる人が、それぞれの持ち場で頑張っているからこそ、毎日、私たちは安心して安定した価格でお米を食べてこられたのです。それは、Switch 2に当てはめても同じことでしょう。