想定外だった「兼業農家」の主流化

 1961年、「所得倍増計画」を打ち出した池田勇人内閣によって「農業基本法」が成立する。ここで農業の所得格差の是正と零細経営の解消、それに国際競争力の拡充を狙う。

 当時の農家一戸あたりの平均農地所有面積は約1ヘクタールだった。これを所得で勤労者世帯と同等にまで引き上げるには一戸あたり約2.5ヘクタールが必要と算出されていた。つまり、3軒の農家が1軒に集約されることで「自立経営農家」が誕生する。あとの2軒は都市部に出て勤労者世帯となれば、所得格差も解消され、経営規模も大きくなる目論見だった。

 ところが、そうはならなかった。3軒の農家が選んだのは、3軒そろっての兼業化だった。それを可能にしたのが、皮肉なことに日本の誇る工業技術による機械化だった。それも欧米のような大規模農業向けの大型機械ではなく、小さな農地でも小回りの効く小型機械化だった。それで面倒な力作業も就労時間も減る。一家の主人が働きに出ている間に、爺ちゃん、婆ちゃん、母ちゃんが農作業をする「3ちゃん農業」が増えていった。

田植えの風景(写真:共同通信社)

 自民党の支持基盤が農村部にあったことも影響した。農業人口が減ることは、票田を失うことに等しい。それどころか、コメ作りからいわゆる「族議員」が生まれていく。

 戦時中に食糧の直接統制を目的に施行された食糧管理法が、戦後も継続していた。コメは政府が一括して買い取り、流通させるシステムだ。この買い入れ価格を決定するのが、米価審議会だった。ここに政治的思惑も絡んで、毎年紛糾する。