子どもはどんなことからも学びを得る

おおた:加えて、日本では高度経済成長期以降、地域社会が徐々に失われていきました。子どもたちが放課後に自由に過ごせる場所もなくなり、子どもたちを見守る大人たちも減っていきました。日常生活の中で、子どもたちが偶発的に体験と出会う環境が減っていったのです。

 その代わりに、放課後に習い事をさせる、つまり「体験」をアウトソーシングすることが一般化していきました。「体験」のアウトソーシングにはお金が必要です。こうして、子どもが何かを体験するため、非認知能力を獲得するためには、お金が必須であるかのような社会が形成されてしまいました。

──おおたさんは、書籍中では「やりたいことがあるのに経済的な理由でそれができない子どもに対しては(中略)社会的な支援をすべきだ。ただし、その支援を『体験格差の解消』と位置付けてしまうことは、あるべき社会の姿を目指すうえで、やってはいけない悪手である」と書いていました。

おおた:「体験」の機会を増やしてあげれば、獲得できる能力が増えて、将来、競争社会の中でも勝ち抜ける可能性が上がって、貧困の世代間連鎖を食い止められるとすること自体が、能力主義にもとづいた競争社会を暗黙の前提としてしまっています。そのような論理をふりかざせばふりかざすほど、教育を競争だと思う人が増え、社会全体としては分断が進みます。

「体験格差」という言葉自体は、「お金がなくてやりたいことができなくて困っている子ども」の存在に注目を集めるという点では非常に有意義です。一方で、「体験格差」は教育競争を煽り、格差社会や自己責任社会の歪んだ仕組みを強化してしまう負の効果をもつ言葉であるという点にも注意してほしいと思っています。

──子どもたちの遊びや生活全てが体験であり、「非認知能力」を身につける何かだとすると、体験格差は起こり得ないのではないでしょうか。

おおた: 世帯年収が300万円未満の家庭と600万円以上の家庭では、「体験」に投じている金額には2.7倍の違いがあるという調査結果を目にしたことがあります。世帯年収が2倍以上違えば、「体験」にかけるお金にも同等の差が生じることは、何ら不思議ではありません。数値化できるものだけを比べたら、確かに格差は存在します。

 けれども、おっしゃる通り、子どもの育ちにとって大切なのは「体験」の回数やかけた金額ではありません。習い事であろうが遊びであろうが、どんなことからでも、子どもは何らかの学びを得るのです。

 子どもが遊びや生活を通して何をどれだけ学んだのかなんて、比べようがありません。そのような広い意味で<体験>という概念をとらえれば、「体験格差」なんて生じ得ません。