1961年、西鉄ライオンズの稲尾和久はチーム130試合のうち78試合に登板、30試合に先発しチームの勝利数81勝のうち過半数の42勝を挙げた。

 金田正一(400勝)、米田哲也(350勝)、小山正明(320勝)などの大投手の記録は、「エース中心」だった1950年代から70年ころまでに作られたものだ。

「昔の投手は頑健で、ちょっとやそっと投げたくらいでは潰れなかった。今の投手とは鍛え方が違う」と当時の大投手はよく口にしたが、こうした大記録が作られる陰で、1~2年活躍して消えていく投手がたくさんいたのも事実だ。

「先発ローテーション」の考え方を導入した巨人・水原監督

 巨人は水原茂監督の時代からMLBのドジャースの野球を学んでいた。投手については「投手の肩は消耗品」という考え方を取り入れて、1960年代にはMLB流のローテーションを導入した。

 このため巨人では300勝投手は出ていない。最多勝は別所毅彦の221勝、続いて中尾碩志の209勝、堀内恒夫の203勝だ。巨人が史上空前のV9(リーグ戦、日本シリーズ9連覇)を達成できたのは、一人のエースに頼ることなく、複数の優秀な先発投手を起用し、個々の負担を分散して戦ったことが大きい。

 1969年、MLBは「セーブ」という新しい指標を公式記録に加えた。これは、最後に登板して、味方のリードを守ったまま試合を締めくくった投手に与えられる数字だ。

 この時期から、MLBでは先発投手の完投数が減少し、後続の投手に救援を仰ぐ機会が増えていた。救援投手の勝利への貢献度は、年を追って大きくなっていた。

 以下は、1950年、60年と、セーブが導入された翌70年、さらに80年のMLBア・ナ両リーグの先発投手の完投数の推移だ。

 1950年:2476試合 997完投 40.2%
 1960年:2472試合 665完投 26.9%
 1970年:3888試合 852完投 21.9%
 1980年:4210試合 856完投 20.3%

「投手の分業」が進んだことがわかる。以後、MLBでは先発=スターターと同様に重要な役割の投手として、抑え=クローザーというポジションが確立していく。