学歴と能力主義が結びついた瞬間
勅使川原:江戸時代以前の身分制度では、職業選択の自由はありませんでした。それが平等でないという議論が近代化の過程で生じました。
では、何が平等かということを考えたときに、最も多くの人を納得させられる回答が「能力」でした。社会の限りある資源を配分するために、個々人の「出来・不出来」を指標にするようになったのです。
一部のエリート教育は戦前からありましたが、大衆の間で能力と学歴が結びついて考えられるようになったのは戦後になってからです。
今もそうですが、当時から日本の企業社会では、メンバーシップ型の終身雇用制度が主流となっていました。
終身雇用制度は、毎年一定数の社員が企業を去ることを前提としています。それを補填するため、毎年一定数の社員を雇用しなければなりません。そのため、日本では新卒一括採用と終身雇用制度は切っても切り離せなくなりました。
新卒一括採用では、たくさんの学生の中から「優れた人」「仕事で頑張れそうな人」を見抜いて選抜しなければなりません。
通年採用と違って企業側は、短時間で学生の人となりを知ることが求められます。「学歴」を「受験戦争で頑張れた証」とみなせば、個々の学生が頑張れる人なのか、そうではないのかを瞬時に判断できます。
このような流れで、学歴が高い人が「努力できる人」「頑張れる人」と認識され、重宝されるようになった、つまり、良い会社に就職できることが一直線に並ぶようになったのです。

──書籍の中で「平等」「公平」「公正」という言葉の定義に言及していました。学歴社会を議論するにあたり、なぜ、これらの言葉に着目する必要があるのですか。
勅使川原:高い学歴を手に入れられるのか否かは、個々人の能力と努力次第だと多くの人が認識しています。
日本の学校教育システムは、同じタイミングで同じことを学ぶため、「平等」だと思われがちです。けれども、平等な教育を受けたにもかかわらず、いい大学に進学できるか否か、給料の高い仕事に就けるのか否かが分かれるのはなぜでしょうか。
「学んできたことは同じだから、あとは実力と努力の差だ」という合意があるのが、能力主義社会のありようです。けれども、それは大きな間違いで「機会が平等だった」ということに過ぎません。これは、多くの教育社会学者が以前から主張してきたことです。