絶望から抜けだすためにしたこと
さくら氏:かつては自分で座位を保っていましたが、筋力の低下により、それもできなくなりました。
3歳ぐらいからは、小さな車椅子を自分の腕で漕いでいましたが、小学校低学年あたりから、腕の筋力がなくなってきて、それからは電動の車椅子になりました。やがて、電動車椅子にも乗れなくなってきたので、またそこから移動の手段が変わりました。
──お話はどの程度可能なのですか?
さくら氏:「ママ」とか「ちゅーた(父親のユウタさん)」とか、「先生」「食べる」「飲む」などの最低限の言葉を発します。コミュニケーションが好きなので、ウケそうなことはよく口にします。数週間前に家族で沖縄に行ったのですが、最近はよく「イーヤーサーサー」と言っています。
──絶望から脱却していった過程について書かれています。
さくら氏:診断が確定したのは生後9カ月で、そこから娘が1歳と少しくらいまで、深い絶望の期間がありました。ただ、同じ境遇の人たちの中では、比較的早く希望を見いだせたほうだと思います。
段階的に前向きになりましたが、最初のきっかけは東日本大震災でした。娘の誕生日は3月11日の翌日です。つまり、娘が1歳になる直前にあの大震災が発生しました。
私は娘の寿命が短いことをとても気にしていました。ところが、震災のときにテレビに表示される死者の数がどんどん上がっていくのを見て、「この中のどれくらいの人が突然の死を想定していただろうか」とふと疑問に思ったのです。
決して他人の死に勇気づけられたわけではありませんが、平均寿命や未来のイメージを今考えてもしかたがないと気づき、「目の前でこの子が生きている、その事実だけを見ていこう」と考え方を変えることができました。
──絶望から抜け出す方法についても書かれていましたね。
さくら氏:これは心理学から学んだことですが、人の話を聞くことができないときや、自分で前に進むことができないときは、心のコップが満タンの状態なのです。そこに新たな情報や考え方を入れようとしても入りません。
そのため、まず抱えている思いを吐き出す必要があります。夫も同じように苦しみを抱えていましたから、私は家族以外の人に話すことに決めました。
何も言わずに話を聞いてくれる先輩がいたので、私はその方に連絡して、泣きながらすべてを話しました。思いのたけをすべて語ったので、障害児を育てることに対する不安や苦しみを、非倫理的なひどい言葉さえ交えながら、言いたい放題ぶちまけることができたと思います。
そういう時に、下手に励ましたりアドバイスしたりしないで、ただ話を受け止めて聞くことができる人は、実はそう多くはありません。