武市の投獄と尋問の継続

武市半平太が獄中において書いた自画像

 元治元年6月13日、郷士清岡道之助・大石弥太郎・樋口真吉らは会合を開いた。藩論を一変させ、同志・武市半平太らの救出を議し、29人が連署して尊王攘夷の大義貫徹・武市らの寛典を藩政府に嘆願した。7月27日、清岡ら23人はその建白を生ぬるいとし、安芸郡野根山に屯集して、先の嘆願受諾を藩政府に迫った。そのため、容堂は大目付小笠原唯八らに討伐を命令したのだ。

 9月5日、野根山に屯集の清岡道之助(成章、贈従四位)・清岡治之助(正道、贈従四位)、近藤次郎太郎(為美、贈正五位)、柏原禎吉(義勝、贈正五位)ら23人を捕縛し、「嘯聚嗷訴(しょうしゅごうそ)」(呼び集まって強訴すること)の罪によって、安芸郡奈半利川磧で斬首した。道之助・治之助の首は、高知城外に梟首された。

 8月12日、井上佐一郎・坂本瀬平、本間精一郎の暗殺に関し、武市らを糺問した。9月になると、武市らを度々法廷に召喚して、薩長両藩有志との密約の有無や吉田東洋・本間精一郎・井上佐一郎・坂本瀬平らの暗殺、さらに同志血盟について尋問を繰り返し、容堂・豊範父子は屏後に出席した。その陰湿さには、閉口する向きもあるかも知れない。なお、その後も尋問は鋭意継続されたのだ。