岩瀬忠震
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(町田 明広:歴史学者)

岩瀬忠震を取り上げる意義

 岩瀬忠震(ただなり/1818~61)と言う名前をご存じであろうか。高校までの教科書には、ほぼ出てこない名前であり、初めて聞かれた読者もおられるのではないか。歴史を紐解くと、なぜ教科書に登場しないのか、そもそも、なぜ知られていないのかと、感じる人物に時々出会うが、その典型的な人物の1人が岩瀬忠震である。

 岩瀬の一般的理解は、「江戸末期の幕臣。江戸の人。開国を説き、日米修好通商条約の締結に努力。将軍継嗣問題では一橋慶喜を推したため、安政の大獄で処罰された」(デジタル大辞泉)となる。しかし、この程度では岩瀬の生涯を表したとは、とても言いがたい。

 今回は7回にわたり、幕末の幕府外交を舵取りした岩瀬の生涯にスポットを当て、幕府の外国対応は砲艦外交に屈した、いわゆる「腰抜け外交」であったのか、その実相に迫りたい。

岩瀬に対する同時代の評価

 後世の人間が人物を評価する場合、様々なバイアスがかかり、どうしても正当な評価を下したとは言いがたい。やはり、同時代人からどのような評価を得ていたのかを知ることが、正しくその人物を評価する指針になろう。岩瀬忠震についても、また然りである。

 福地桜痴『幕末政治家』では、「識見卓絶して才機奇警、実に政治家たるの資格を備えたる人なり。当時、幕吏中にて初よりして毫も鎖国攘夷の臭気を帯びざりしは岩瀬一人にして、堀田閣老をして、其の所信を決断せしめたるも、岩瀬に外ならざりし」と記す。岩瀬は卓越した見識を持ち、才能が並外れた政治家の資質を持っていた。幕吏の中で、積極的開国論を唱えたのは岩瀬だけで、老中堀田正睦をその方向で決断させたのは岩瀬であるとする。

堀田正睦

 木村喜毅『幕府名士小伝』では、「天資明敏、才学超絶、書画文芸一として妙所にいたらざるはなし。嘉永七年、目付に任じ、深く阿部執政に信用せられ、海防外交の事をはじめ、凡そ当時の急務に鞅掌尽力せざるものなし。講武所、蕃書調所を府下に設け、海軍伝習所を長崎に開くが如き、皆この人の建議経劃するところなりといえり」と記す。

 岩瀬は、生まれながらにして聡明で、しかも頭脳明晰であり、才覚と学識は群を抜いており、その上、筆も絵も文芸に至るまですべて極めていた。嘉永7年(1854)には目付に抜擢され、老中阿部正弘の下で安政の改革に従事し、講武所、蕃書調所を江戸に設け、海軍伝習所を長崎に開設するなど、岩瀬が建議して実際に計画をしたものばかりであると断言する。

 その他に、栗本鋤雲、橋本左内、中根雪江らも岩瀬の政治家としての果断な決断力と実行力に脱帽していると述べており、一流の人物から超一流の評価を得ている事実は、見逃すことが出来ない。岩瀬忠震、恐るべしである。