武市半平太の最期と歴史的意義
元治元年6月14日、岡田以蔵(出奔無宿鉄蔵・京都御構入墨者)を京都より藩地に檻致し、入獄させて厳しい尋問を繰り返した。武市らにとって、同志意識が乏しく何でも軽々に話す以蔵の存在は致命的であった。
9月30日、武市半平太は書を島村寿之助に発し、岡田以蔵らの毒殺を依頼したが、未遂に終わった。いずれにしろ、以蔵の自白が決め手となって、新たな逮捕者も出るなど、土佐勤王党の瓦解に深甚な影響を与えたのだ。
慶応元年(1865)閏5月11日、武市は自刃を命じられ、以蔵は梟首、岡本次郎・村田忠三郎・久松喜代馬は斬首、小南五郎右衛門・園村新作・河野万寿弥・小畑孫三郎は改易に処断された。「去ル酉年(文久3年、1863)以来天下ノ形勢ニ乗シ、密ニ党与ヲ結ビ、人心扇動ノ基本ヲ醸造シ」と断罪されており、政治犯対応であったが具体的な罪状はなかった。とにかく、武市を葬りたい容堂の意向通りの判決であったのだ。
幕末史の最も激動時であった文久期(1861~63)において、国事周旋で活躍した武市半平太は幕末政治史を語る上で、絶対に欠かせない人物である。即時攘夷運動と言えば、長州藩の代名詞のような歴史用語と思われがちだが、長州藩が登場する以前に中央政局を動かしていたのは土佐藩であり、尊王志士・武市であった事実は軽視できないものである。
しかし、武市は草莽によるものではなく、藩を挙げての即時攘夷運動に固執し、その実現を確信して模索し続けた。その志向はある程度まで実現したが、山内容堂によって木っ端微塵にされてしまった。土佐藩における容堂という絶対的権力は、土佐勤王党を壊滅させ武市を葬り去ったが、そのツケは明治維新後に払わされることになったのだ。
確かに、容堂に比して、武市の人の良さ、政治家としての資質の低さも指摘できようが、容堂と武市は君臣の関係であり、武市の限界を問うのは、少々酷ではないかと考えるのは筆者だけであろうか。