容堂の策略と罠にはまった武市

山内容堂

 文久3年8月6日、容堂から招請があり、武市半平太は4時間ほど拝謁した。容堂は、武市に媚びるような態度を示し、人材登用を約して尊王攘夷の大義を吐露した。武市は油断し、容堂に誠意すら感じてしまい、これまでの斬奸(天誅)を暴露してしまった。それでも、武市は容堂を疑っておらず、「恐れ乍ら御同志にて御生候間、御安心成され度」(島村寿太郎宛書簡、8月7日)と、容堂とは同志なので、安心して欲しいと語っているほどであった。

 しかし、容堂は既に土佐勤王党、そしてそのトップリーダーである武市を排斥する腹づもりであり、人が良い武市はまんまと容堂に騙されてしまい、結果として、自らが自身と同志の罪状を白状してしまったのだ。後は、どのタイミングで武市弾圧を始めるかのみであった。

 8月18日政変を契機に、容堂は土佐勤王党(武市一派)の一掃に着手し始めた。機は熟したとの判断である。9月21日、小南五郎右衛門・田中光顕ら多数を勤事控(自宅謹慎)とし、武市・河野敏鎌・島村衛吉らを揚屋(牢獄)入、島村雅事・安岡覚之助を親族預にそれぞれ処断した。

 武市に対する令状は、「京都に対され、其侭に閣かれ難く」と至極曖昧であった。朝廷に対して、このままにしておくことは出来ないとは、何を指しているのだろうか。武市も当然納得など、出来なかったであろう。そして、元治元年(1864)5月26日、ようやく審問が開始された。