武市の大抜擢と失脚の萌芽
文久3年3月15日、武市半平太は京都留守居加役に大抜擢され、格式「馬廻」に処せられた。これは、土佐藩において大名直臣の格式である。役料650石と言えば、武市にとっては思いもよらぬ大出世であったのだ。その人事を実行した容堂の真意としては、武市への期待とともに、土佐勤王党との隔離策であったことは間違いなかろう。
3月23日、武市は土佐から取り寄せた連判状を容堂に提示した。千屋菊次郎の日記「再遊筆記」には、「吹山、老公に謁す、初めて宿志を述べ、同志の旨趣始めて通ず、君臣問(間)の疑い稍解く」とある。武市が容堂に初めて本音を語って、容堂の疑いがようやく晴れたとしているが、実際には真逆である。なお、容堂は武市に焼却を指示しており、これは武市をかばった温情だったかも知れない。
4月1日、容堂は間崎・平井を京都より藩地に檻送・投獄した。4日、武市は薩長両藩和解に関し、容堂の指示を受けるため京都を出発し、8日、帰藩途上の容堂に伊予・土佐の国境で追いつき、対面を果たした。そのまま、同行して帰藩した。なお、朝廷から武市召命の連絡がはいったものの、容堂は拒否している。いよいよ、武市に対する弾劾が目前に迫ったのだ。
次回は、武市と容堂の関係に焦点を当てながら、容堂の策略と罠にはまった武市の投獄と尋問の経緯、そして武市の最期を詳解した上で、武市の歴史的意義について、語ってみたい。