久坂玄瑞らによる三事強請と武市の役割

文久3年2月9日、中山忠光は攘夷決定を関白鷹司輔煕・中川宮に迫ったが、はっきりしない態度に激怒した。そして、四奸二嬪排斥運動で失脚中の岩倉具視・千種有文を斬首すると息巻いたため、久坂玄瑞はさすがに過激に過ぎると考え、武市半平太に相談した。
武市は久坂に対し、「三士(久坂玄瑞・寺島忠三郎・肥後藩士轟木武兵衛)早天関白殿(鷹司輔煕)に到り、言路を開き、期限を定め、人材を挙ぐ、三事を建言し、行わざれば則ち餓死す」(「隈山春秋」)を提案した。すなわち、ハンガーストライキを伴う言路洞開・攘夷期日決定・人材精選の三事の強請である。
2月11日、久坂・寺島・轟木は関白鷹司輔煕邸を訪ね、言路洞開・攘夷期日決定・人材精選の三事を強請した。正親町実徳・三条西季知・橋本実麗・豊岡随資・滋野井実在・東園基敬・正親町公董・姉小路公知・壬生基修・中山忠光・四条隆謌・錦小路頼徳・沢宣嘉も、大挙して関白邸に押し掛けて、その実現を強く求めたのだ。
これには堪らず、鷹司関白は急ぎ参朝して、事情を闕下に伏奏して、孝明天皇に対して天裁(天皇の裁決)を懇請した。議奏三条実美・阿野公誠、武家伝奏野宮定功らは勅を奉じて、将軍後見職徳川慶喜の旅館に臨み、速に攘夷期日の決定を命令した。政事総裁職松平慶永・京都守護職松平容保と、当時は幕政参与的なポジションにあった山内容堂は急ぎ慶喜の許に参集し、夜を徹して議論して奉答書を提出したのだ。
奉答書の中で、慶喜は攘夷実行の期日を将軍の江戸帰還後20日、さらに「4月中旬」という回答を明示した。ここに、武市の発案から攘夷実行等が確定したのだ。さらに、新たな機関として、国事参政・寄人の設置にも発展しており、武市の存在感の大きさがうかがえる。
