容堂による土佐勤王党・弾圧の開始

 文久3年1月29日、容堂は身分をわきまえずに国事に奔走したとして、平井収二郎らを叱責した。『寺村左膳日記』によると、「夕方御酒後、軽絡者平井収二郎・小幡孫二郎両人召出、昨日同様御叱り遊ばさる」とある。

 翌2月1日、平井の他藩応接役を罷免した。これに対し、武市は容堂に面会し、容堂の行動を諌めるが取り上げられなかった。平井の免職は、即時攘夷派にとって、ひいては武市にとって、大きな痛手となった。さらに、2月25日、間崎哲馬と平井収二郎は京都藩邸に自訴し、中川宮に令旨を懇請した顛末を陳べて、服罪の態度を取った。その後、弘瀬健太も同様の行動をして、容堂からの沙汰を一緒に待った。

 この事態に対し、武市や平井は薩摩藩の姦計が背景にあると判断した。平井は、「至誠を以て二藩に当るも、是に於て薩人意の如くならずを以て、遂に我を忌み、反って我を朝野に謀り、長土之暴論と為し、久坂玄瑞・武市半平太・余輩数人、実に被之標的と為る也」(「帰南日記」)と日記に記した。

 これによると、土佐藩(土佐勤王党)は至誠をもって薩摩藩・長州藩と対応したが、ここに至って、薩摩藩士の意向のようにならないことから、ついに我々を憎み、我々に対して朝廷と在野で謀をめぐらし、久坂玄瑞、武市半平太、平井収二郎ら数人がその標的となってしまったと、憤慨したのだ。

 加えて、松平春嶽は容堂に対し、土佐勤王党の連判状に吉田東洋暗殺者3名が含まれることを報知した。こうした圧倒的に不利な状況下で、武市は上岡胆治を使者として土佐に派遣し、託した同志への密書の中で、薩摩の奸謀に陥ったのは遺憾であると表明した。