家基急死から5カ月後に他界したベテラン老中・松平武元

 史実において、家基は安永8(1779)年、鷹狩りから帰路につくとき、道中で休憩しようと立ち寄った品川の東海寺で突然、体調不良を訴え、3日後に死去している。

 急死の理由はよくわかっておらず、実際にも「意次犯人説」が囁かれたらしい。だが、意次が家基を亡き者にするメリットはあまりなさそうだ。

 意次は、9代将軍の家重(いえしげ)に見いだされて、息子で10代将軍の家治の代で、さらに重用された。親の代から関係性がある意次からすれば、そこからさらに家治の息子・家基へと継承されたほうが、影響力を発揮しやすい。その流れの中で、側近の座も意次から息子である意知(おきとも)へとスライドできるように動いていたことだろう。

 とはいえ、家基が不可解な死であることは確かであり、状況的には何者かの思惑が働いた可能性は高い。となれば、家基が亡くなることで最も得した人物が暗躍したと考えるのが自然だろう。ドラマでも意次がこんなセリフを言っている。

「誰が次の西の丸(将軍の跡継ぎのこと)を狙ってくるか。それでおのずと正体は明らかになるはず」

 その人物とは、のちに徳川家斉(いえなり)として第11代将軍となる、一橋家の竹千代である。竹千代の6歳という年齢を考えれば、その父の一橋治済(はるさだ)が何らかの形で、家基の死に関わったのではないだろうか。

 ドラマでは、今まで何かと意次の邪魔をした武元が、意次のピンチをむしろ救ったことで、今後の関係性の変化が注目された。

 実際の武元も3代にわたる将軍に仕えるベテランでありながら、台頭が著しい意次の実力は認めていたようだ。武元のもとに大名から訴えがあったときに「意次に相談するように」と指示をする書状も見つかっている。武元としても、将軍と大名をうまくつないでくれる意次の存在はありがたかったのではないだろうか。

 ところが、ドラマでの武元は、何者かによって暗殺されてしまう。「家基が没してから約5カ月後に武元が亡くなっている」という史実をうまく使った脚色だといえよう。

 やはり怪しいのは、一橋治済である。家基が亡くなったことで、意次や治済は次期政権に向けて、どんなふうに動くのか。要注目といえそうだ。