また、横井氏は税金の申告漏れも取りざたされた。
焼けた建物は14年も放置された。
私は無惨に放置されたホテルに深夜潜入し、内部の撮影をしたことがある。懐中電灯に黒く浮かび上がる焼けた壁、家具、配線、冷蔵庫。真っ暗な廊下を進んで行くと、今にも犠牲者の怨霊が声を掛けてくるような幻想が頭の中をチラチラした。
結局、横井氏は1993年に火災の責任を問われて禁固3年の実刑が確定し、1994年から1996年の仮釈放まで、八王子医療刑務所で服役した。
週刊誌へのタレコミ電話
彼が出所して間もなく、当時、私が所属していた週刊誌の編集部に一本の電話がかかった。
「読者ですが、あの横井英樹が神奈川県のとある大学病院に入院しています。複数の愛人らしき女が毎日見舞いに来ています。あんな悪い奴はいません。ぜひ記事にしてください」
早速、記者と出かけた。受付を通さず一般見舞客を装い1階売店付近で待った。今では許されない取材スタイルかもしれないが、この当時はこうした取材も珍しくなかった。
待つこと5時間、ガウンを着た横井氏が2人の女性を従えてやってきた。私は柱の影から二度シャッターを切った。気づかれなかった。
入院中の横井英樹氏を病院で激写。女性2人を伴って歩いていた(写真:橋本 昇)*写真は一部加工しています
それから今度は直接本人にあたった。「横井さん体調はいかがですか?」と声をかけた。
その途端、愛人と思しき女性が「やめてください!」と金切り声を上げ、横井氏の前に立ちふさがった。そして当の横井氏はといえば、病人とは思えないほどの俊足で近くのドアを開け、階段を転げるように下って行った。立ち塞がる愛人の悲鳴と怒号、横井氏を追う記者と私。院内は騒然となった。
結局、横井氏は愛人の献身的なガードで逃げ切った。
その後、横井氏の資産のほとんどは安値で売却され、最後まで残ったのはスーパーマーケットが1店(ダイエー碑文谷店)とボウリング場が1店だけだったという。1998年、乗っ取り屋・横井英樹氏は心臓発作で急死した。
横井は子供時代に経験した貧しさ。その貧しさをテコにして成り上がり“金こそわが命”。誰も信用しない。金と女を栄養に築いた85年。横井の貧の意地を物語るように横井が火葬された遺骨から安藤昇に撃たれた時の弾丸が残っていたという。





