軍事情報の必要性

 ヒトラーの側近のなかでも、ミュンヘン協定のような妥協ではなく、直ちに戦争で決着をつけるべきだと主張する者もいた。その代表が、リッベントロップ外相である。

 しかし、軍の最高幹部であるゲーリングやカイテルはそれに反対した。それは、まだドイツの軍備が十分ではなく、チェコスロバキアの要塞すら撃破できないこと、フランス軍と戦えばすぐに敗退することを知っていたからである。外交官のリッベントロップには、その情報を伝えなかったのである。フランス首相のダラディエもまた、軍事情報に精通していなかった。チェンバレンもそうである。

 ミュンヘン協定の締結によって時間を稼ぎ、軍備を充実させて戦争の準備をすることができることになって最も喜んだのは、ドイツ軍最高幹部だったのである。

 今のウクライナ戦争について、トランプは、そして私たちは、ロシア軍やウクライナ軍の軍備、継戦能力などについて、どこまで正確に把握しているのだろうか。プーチンやゼレンスキーはどうか。

 今は、通信衛星などのインテリジェンス能力が、ヒトラー時代に比べて格段に進歩している。しかし、軍需工場の中まで潜入して細かく調べることができるわけではない。通信衛星がなかった時代の方が、ヒューマン・インテリジェンスは発達していたかもしれない。

「命のビザ」で有名な杉浦千畝の本職は諜報活動であり、彼のように当時のヨーロッパで活動していた諜報要員からは、極めて正確な情報が本国に届けられていた。しかし、駐独大使の大島浩のように、ヒトラーに心酔する外交官からは、その情報を打ち消す情報が外務本省に打電されたのである。

大衆の愚かさ

 チェンバレンもダラディエも、ミュンヘンから本国に帰還したとき、「平和を維持した」として、国民に大喝采で迎えられた。

 先述したように、忠実な同盟国であるチェコスロバキアを見捨てたことに苦悩するダラディエは、帰国の途について、パリのル・ブルジェ空港に近づいたとき、大群衆が空港に集まっているのを見た。彼は、抗議の嵐が来ると思い、釈明の声明の原稿を書き終わるまで、空港上空を旋回するようにパイロットに求めたのである。

 しかし、着陸した彼の飛行機を待っていたのは、歓喜して首相を称える大歓声であった。空港から市内へ向かう道、パリ市内でも喜び溢れる大観衆が待っていた。

「馬鹿な奴らだ。彼らは、何を喜んでいるかを知っているのか」とダラディエは自嘲気味につぶやいたという。

1938年9月30日、ミュンヘン会談を終えて帰国した首相のダラディエを熱狂的に迎えたパリ市民。ダラディエ自身は「馬鹿な奴らだ、彼らは何を喜んでいるか知っているのか」と呟いたという(写真:TopFoto/アフロ)

 チェンバレンもまた、帰国したとき、国民の大歓声に迎えられた。国王のジョージ6世は、バッキンガム宮殿のバルコニーに首相を迎えて国民の歓迎を受けることを許すという異例の対応をとった。

 しかし、チャーチルは、ミュンヘンの宥和について、「これが事の終わりと考えてはならない。これは清算の始まりにしかすぎない」と批判した。

 1期目の政権にあるとき、トランプは日露戦争について全く知らなくて、安倍首相を驚かせたことがある。ミュンヘン会談についても同様だろう。歴史を勉強しない男が世界一の大国を支配する危険性を、特にアメリカ国民は認識すべきである。まさに、トランプを政権につけたポピュリズムが世界を滅ぼそうとしている。今は、第三次世界大戦前夜なのかもしれない。