50歳を前に『資本論』を出版するもほとんど話題にならず
そんなエンゲルスだから、冒頭で紹介したように、第1巻の出版が不発に終わってもなお、マルクスを支え続けました。第2巻の出版については、ドイツ在住の医師ルートヴィヒ・クーゲルマンから「いつ出るのか」と尋ねられると、マルクスは即座にこう返事をしています。
「原稿がようやく終わったところです。すなわち、あとは印刷まで清書と最後の推敲を残すのみとなったわけです」
実際のところ、原稿は完成にはほど遠かったというから呆れたものですが、当初予定していた『経済学批判への寄与─第2部』という、長ったらしいタイトルは変更することにしたようです。大きなテーマに挑んでいる書物は、むしろ短い書名がふさわしい。そう考えたマルクスは、クーゲルマンとの手紙のやりとりのなかで、こう書いています。
「その本の題は『資本論』ということになるでしょう」
そう、このときにマルクスが取り組んだ第2巻こそが、世界的名著『資本論』として、世に放たれることになります。
肝心の原稿については、前回同様に難航したことは言うまでもありません。マルクスは座らずに立ちながら原稿を書くこともあったとか。お尻のできものが悪化して、座っていられなくなったからです。
それでもマルクスなりに、周囲への気遣いもしていたようです。期待を持たせるわけにはいかないと、マルクスは確実に本が書けるというタイミングまで、エンゲルスに手紙を出さずにいました。
そして1867年4月2日、マルクスはエンゲルスに手紙を出します。
「今、その時がきた」
出版者のマイスナーのもとに原稿が届けられたのは、それから1週間後のことです。これでようやく眠れぬ日も終わりです。お尻のできものも良くなってきました。なにより、この本さえ出れば、経済的な苦境から脱出できる。マルクスはそう信じていました。
「私は根本的に自分の経済状況を改善し、また再び自分の足で立つことができるようになると確信している」
マルクスは一度として自分の足で立ったことはありませんでしたが、この際、細かいことは言わずにおきましょう。
推敲と校正を終えると、いよいよ出版を待つだけ。マルクスはこのとき49歳。この作品が評判となり、50代で大きな転機を迎える……はずでした。
ところが、満を持して『資本論』が出版されるも、ほとんど話題になりませんでした。焦ったエンゲルスが各紙に書評を書いて、大著の存在をどうにかして知らしめようとしましたが、徒労に終わっています。

人生をかけた労作にもかかわらず、期待した反響は得られず、マルクスは大いに失望します。
「私の本に対する反響があまりに少なくて、 気持ちが落ち着かない」
またもや不発に終わったのには、いくつか理由がありました。まずは、本の最初に難解な章を持ってきてしまったこと。マルクスは「始まりはすべての科学において難解になる」と、序文で読者にあらかじめ書いてはいましたが、多くの読者の読む気をそいだようです。
また、エンゲルスは「見出しの少なさ」を指摘しています。『資本論』は、読みやすくするための工夫が、あまりに乏しかったのです。さらにいえば、『資本論』を読んでほしい労働者は内容が難しくて理解できず、一方、読解力のあるエリート層は内容に関心を持たない……というミスマッチが生じていたことも致命的でした。