
イタリアで生まれ、協奏曲の父として知られるヴィヴァルディ。「急―緩―急」の3楽章で構成するという基本構造や、一人の演奏家を主役にする「ソロ・コンチェルト(独奏協奏曲)」という、現在では当たり前となった協奏曲のスタイルを確立した。死後、ヴィヴァルディは、風化していたバッハが「発掘」された際に、芋づる式に発見され、イタリアの巨匠として20世紀に再び脚光を浴びた。(JBpress編集部)
※本稿は『論理的音楽鑑賞1 バロック・古典派音楽を読み解く』(森本眞由美監修、佐久間佳織・玄馬絵美子著、ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングス)より一部抜粋・再編集したものです。
ルネサンス時代にあらゆる芸術を開花させた芸術先進国のイタリアは、バロック音楽でも時代を牽引していきます。
楽器産業で栄えたイタリアは、器楽の発展にも貢献。上声のメロディや言葉が聴き取りやすく、自由自在に躍動するために、コントラストの鮮やかな「新音楽」のモノディ様式が生み出されました。通奏低音もその手法として誕生しました。この新しい声楽様式が、イタリアのオペラ発展に大いに寄与します。
「協奏曲の父」アントニオ・ヴィヴァルディ
ヴィヴァルディは、3大バロック音楽家の一人で「協奏曲の父」です。「赤毛の司祭」の名で知られており、モンテヴェルディの死後、交代するようにヴェネツィアで登場した協奏曲とオペラの名手です。バッハやヘンデルとほぼ同時期に活動し、バッハなど、のちの音楽家に影響を与えた、ヨーロッパ各地で活躍した国際派音楽家でした。
サン・マルコ大聖堂の神学校で学び、司祭となる
〈旅の始まり〉
ヴィヴァルディは、理髪師兼ヴァイオリニストだった父親のもと、長男として生まれました。父親がサン・マルコ大聖堂で活躍していた縁もあり、10歳の時にはサン・マルコ大聖堂付属の神学校に入学し、見習いのヴァイオリニストになりました。すぐさま音楽的才能を開花させ、父の代理として表に出ることもあり、作曲も始めました。
25歳で司祭になったものの、ぜんそくとも推定される持病のせいでミサを行うことがあまりできず、同年ピエタ女子慈善養育院のヴァイオリン教師になり、音楽活動を本格化させました。以後、40年にわたり女子慈善養育院のコンサートのために多数の曲を作りました。
