ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1748年、ライプツィヒ歴史美術館)

いまや「音楽の父」と呼ばれるヨハン・ゼバスティアン・バッハ。没後は忘れ去られていたバッハが、メンデルスゾーンによって「発掘」され、世間で再評価されるようになったのは、彼の作曲技法が伝統的な音楽の集大成を作り、新しい音楽の扉も開いたからだ。加えて(1)神の秩序に従って緻密に設計されている、(2)そうでありながらわかりやすく美しい音楽である――という2つの特徴が両立しているところが大きな理由である。(JBpress編集部)

※本稿は『論理的音楽鑑賞1 バロック・古典派音楽を読み解く』(森本眞由美監修、佐久間佳織・玄馬絵美子著、ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングス)より一部抜粋・再編集したものです。

 バロック音楽の時代のドイツは、小国の寄せ集めでまだ一つの国にまとまっていません。そのため、各都市によって特徴がありました。

 ハンザ同盟の中核の帝国自由都市ハンブルクでは、王侯貴族の支配を受けず、市民のためのオペラ劇場などが発展します。ザクセンの商業都市ライプツィヒではルター派の宗教音楽が盛り上がります。プロイセン王国の首都ベルリンでは、宗教音楽はそれほど発達せず、フランスから逃れたユグノー(カルヴァン派プロテスタント)がフランス流の宮廷音楽をもたらしました。

西洋音楽の基礎を築いた「音楽の父」バッハ

 近代西洋音楽の基礎を作り、のちの音楽家たちに多大な影響を与えたヨハン・ゼバスティアン・バッハ。その偉大な功績から「大バッハ」や「音楽の父」と呼ばれる、3大バロック音楽家のうちの一人です。

 21世紀の今なお、結婚式で、入学式や卒業式で、BGMで、彼の名曲が流れ、人々の人生や生活の1ページに彩りを添えています。そんなクラシック音楽界の巨匠ですから、ファンの方も多いでしょう。彼の創作の原動力をひもときます。

聖トーマス教会のバッハ像(写真:Jan Adler/Shutterstock)

音楽一族のもとに生まれ、オルガニストとして活躍

〈旅の始まり〉
 バッハは代々にわたる音楽一族のもとに生まれました。出身地のアイゼナハは、ルターが聖書をドイツ語に翻訳した場所であるヴァルトブルク城のお膝元です。ルターの宗教改革の流れで設立された神学校や合唱団で音楽の基礎を学んでおり、父からも教育を受けました。

 しかし、10歳までに両親を亡くし、14歳年上の長兄のもとに引き取られます。長兄から独立した後も別の都市であるリューネブルクの神学校に入学し、優秀な成績を修め堅実に実力をつけました。卒業後はドイツ各地で名オルガニストとして活躍します。