家族や親しい人の愛情に支えられた音楽活動

〈師匠や仲間〉
 バッハを引き取った長兄ヨハン・クリストフ・バッハは、ヨハン・パッヘルベルの弟子であり、教会のオルガニストでした。

 この時の有名な逸話が「月光写譜」です。長兄が秘蔵していた南ドイツの貴重な楽譜を月明かりのもと、ひそかに写譜した幼いバッハ。最終的にせっかく写した膨大な楽譜は没収されてしまいますが、その時にはもうすでにそれらの楽譜はすべて彼の頭の中にありました。バッハの貪欲さと勤勉さ、そして驚異的な才能を示すエピソードです。

 文化都市ザクセン=ワイマール公国で過ごした20代の頃は、領主のヴィルヘルム・エルンスト公に重用され、ほかに引き抜かれないよう特別に用意された宮廷楽師長の職に就きます。バッハのオルガン曲の多くはこのワイマール時代のものです。文化を愛するワイマールの風土の中、自由を謳歌し、創作や演奏に励みました。

 各地で演奏することで交流を持ち、弟子たちの教育にも当たります。ヴィヴァルディを知ることで、ヴィヴァルディの協奏曲をチェンバロおよびオルガンに編曲するなど、作風の幅を広げました。

 脂ののった30代を過ごしたアインハルト=ケーテン侯国では、音楽を愛する領主のレオポルト公がバッハを友人として扱いました。ここでは宮廷楽団の楽長として室内楽や協奏曲などの世俗音楽を作りました。この時代の名曲《ブランデンブルク協奏曲》はバロック宮廷音楽の最高峰で、協奏曲の形式が持つあらゆる可能性を探るかのようにイタリア、フランス、ドイツの様式が混在し、教会音楽と宮廷音楽の要素が融合したような傑作でした。

 家族や親しい人の愛情に支えられた音楽活動も、バッハの特徴です。二人の妻との間には20人の子どもができ、家庭生活は円満でした。子どもたちが小さい頃のバッハ家は「蜂の巣のように賑やか」だったようです。

不当な人事を受け転職しようとするも、投獄される

〈人生の試練〉
 バッハは、音楽に対する情熱が強すぎるあまりに軋轢を生じて事件が起きたり、勢力争いに巻き込まれたりなど、人生の中でたびたびピンチに見舞われました。

 ワイマールからケーテンに転職するきっかけは、領主の親族間の険悪な因縁に巻き込まれてしまい、不当な人事を受けたことでした。傷ついたバッハは無断でケーテンに移ることを決断しますが、ワイマール公が転職を許さず約1カ月投獄されてしまいました。

 しかし、バッハはこの時めげずに大人しく牢につながれ、「ピアノの旧約聖書」として、のちの音楽家が崇める《平均律クラヴィーア曲集》の推敲を始めたといわれています。これは長調と短調合わせて24のすべての調で、前奏曲(プレリュード)とフーガが一対となり網羅された教育用練習曲集で、ベートーヴェンがスランプの時のバイブルとなりました。

 ケーテン時代には、最初の妻マリア・バルバラが急逝し、死に目にも会えないという不幸に見舞われます。その後バッハを支えたアンナ・マグダレーナと再婚しますが、信頼していていたレオポルト公が結婚した公妃がなんと音楽嫌いで、ケーテンを去ることになってしまいます。

 後半生を過ごした経済・学園都市のライプツィヒでは、カントル(音楽監督)として大作《マタイ受難曲》に取り組むなど教会音楽活動の頂点を極めます。しかし、就職先の聖トーマス教会付属学校や市当局とはぎくしゃくした関係で、さらに音楽評論家になった昔の弟子が雑誌でバッハの音楽を「誇張や過度な技巧」と批判したことに強い衝撃を受け、次第に厭世的になっていきます。