米は日本人の主食であり、その不足は生命に関わる。そのため人々はコメ不足に敏感に反応する。それは江戸時代の「打ち壊し」や1918(大正7)年の米騒動の原因になった。

 1918年の米騒動は、米価が高騰した際に富山県の漁村の住民が、米の県外流出を阻止しようと立ち上がったことが発端とされる。米どころである県内の米が関西や関東に流出することを阻止しようとしたのだ。運動の中心に主婦が多かったことから「越中女房一揆」などと報道されて、それを契機に民衆が米問屋を襲うなど、江戸時代の「打ち壊し」さながらの現象が全国に広がった。政府は警察力で騒動を鎮圧したが、これを受けて時の寺内正毅(てらうち・まさたけ)内閣が瓦解した。寺内はこの心労もあってか翌年に死去している。

 1918年は凶作ではなかった。米高騰の原因は第一次世界大戦に伴うインフレであった。1914年に戦争が始まると日本は英仏側に立って参戦したが、戦場から遠いこともあって武器などの供給基地の役割を担い、産業界は好景気に沸いた。それがインフレを招いた。

 今回の米価高騰も1918年によく似ている。凶作が原因ではない。真の原因は経済の基調が、バブル崩壊以来続いていたデフレからインフレに変わったことにある。

戦中戦後の混乱期に米価高騰を防いだ食管法

 このような騒動を避けるには、どのような方法があるのだろうか。それを最も真剣に考えたのが東條英樹内閣(1941~44年)だった。

 東條内閣は1942(昭和17)年に食糧管理法(食管法)を制定した。

 その背景にはこんなエピソードも存在する。米騒動時の首相である寺内正毅は陸軍軍人であったが、その息子の寿一(ひさいち)も陸軍軍人であり、太平洋戦争中に南方軍総司令官を務めるなど陸軍の重鎮であった。寺内親子は日本で唯一共に元帥になった。そんな陸軍では「米不足が政情不安につながる」との意識が広く共有されていようだ。東條も陸軍出身である。