佐野政言はなぜ、刃傷事件を起こしたのか?
佐野政言はなぜ、田沼意知に斬りかかったのだろうか。
それには、三つの説が存在する。
一つ目は私怨説である。
意知に佐野家の系図を貸したが、どれほど催促しても返さなかった。
佐野の知行地にある「佐野大明神」を、田沼の家来が「田沼大明神」と改めた。
佐野家の七曜紋入りの旗を意知に貸したところ、「七曜は田沼家の紋」だと主張し、返却されなかった。
田沼家はもともと佐野家の家来筋の出なので、昇進を田沼意次の用人に頼み、合わせて六百二十両もの大金を贈ったのに、昇進が叶わなかったこと。
など、幾重もの恨みが積もり積もって、凶行に走ったとする。
だが、この私怨説が記されている、佐野政言が評定所で取り調べられた時の「口上書」は、偽文書とみられている、
二つ目は、公憤説である。
権勢をふるう田沼意次・意知父子が、様々な改革を試み、人々から憎悪された。
父子を憎む人々は、田沼意次は老齢でそれほど先は長くないが、子の意知はまだ若く、改革を続けるに違いない。
そのため、佐野政言が意知の殺害を実行したという。
こちらは、オランダ商館長のティツィングが著した『日本誌』に記されており、信憑性を疑う声もある。
最後の乱心説は、幕府評定所が「乱心による刃傷」と認定したことによる。
ただし、幕府は厄介な事件などを、「乱心」事件として処理することがしばしあることから、文字通りの「乱心」と受け取ることを、疑問視する見方もある(以上、藤田覚『田沼意次 御不審を蒙ること、身に覚えなし』)。
今もなお、真相は闇の中だが、世間の人々は事件の被害者である田沼意知よりも、加害者である佐野政言に心を寄せていく。