佐野善左衛門政言は、宝暦7年(1757)に生まれた。 寛延3年(1750)生まれの蔦屋重三郎より7歳、寛延2年(1749)生まれの田沼意知より8歳年下となる。 政言は安永2年(1773)8月、数えで17歳の時に家督を継ぎ、安永6年(1777)に大番となり、翌安永7年(1778)に新番に移った。大番も新番も、将軍の直属軍「五番方」の一つである。 新番は将軍の身辺警護を職掌とし、番頭1人、組頭1人、番士20人を1組とする。 政言は、新番蜷川相模守の組の番士であった。 現在の皇宮警察官に近い(秦新二・竹之下誠一『田沼意次・意知父子を誰が消し去った? 海外文書で浮かび上がる人物』)とされる任につきなが
佐野政言はなぜ、田沼意次の息子・意知を斬りつけたのか?その実像と事件の真相、「世直し大明神」と呼ばれた理由
蔦重とゆかりの人々(7)
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