世直し大明神
刃傷事件が起きた天明4年は、大飢饉に見舞われ、米の価格も高騰。人々は苦しみ、田沼政権への不信感を強めていた。
ところが、佐野政言が切腹した翌日、あるいは刃傷事件の翌日から、なぜか米の価格が下がり始めたとされる。
世間の人々は、これを政言のおかげだとみなし、政言を、「世直し大明神」と祀り上げた。
政言の墓所のある徳本寺には、人々が殺到。政言の墓所は仏花が溢れ、立ち上る線香の煙に包まれたと伝えられる。

対して、田沼意知の葬列には町人たちが石を投げ、悪口を浴びせたという。
意知の死をきっかけに、人々の田沼政権への不満が噴出し、2年後の天明6年(1786)、後ろ盾であった眞島秀和が演じる十代将軍・徳川家治の死とともに、田沼意次は失脚。
田沼時代は終わりを告げた。
田沼時代の終焉は、蔦屋重三郎の運命にも、大きな影響を与えることになる。