そもそも問題の発端は

 話は、第2次世界大戦の終結直後にまでさかのぼります。ナチス・ドイツに迫害されたユダヤ人がパレスチナ地区に続々と押し寄せ、もともと住んでいたアラブ人(パレスチナ人)との衝突が続きました。ユダヤ人は、この地域を委任統治していた英国への攻撃も強め、英軍司令部のあったエルサレムの有名ホテルも爆破しました。

 英国は統治をあきらめ、発足したばかりの国連に対応を委ねます。国連は1947年11月、パレスチナ分割を決議しました。ユダヤ人とパレスチナ人の2国家を建設し、エルサレムは国際管理にするという内容です。

 このとき、パレスチナ側にはヨルダン川西岸地域に加えて、地中海沿いからエジプトとの国境線に広がる土地を割り当てることにしました。これがガザ地区の始まりです。今より3倍ほどの広さがありました。

 国連が介入する前、この地域の人口は、パレスチナ人の127万人に対し、ユダヤ人は半分ほどの68万人しかいませんでした。しかもユダヤ人が所有する土地は全体の8%足らずです。

 しかし国連決議に従うと、ユダヤ人の土地は一気に全体の55%に拡大します。ユダヤ人はその広大な土地を得て、国家を建設することになりました。一方のパレスチナ側は不公平だとして、これを認めませんでした。

 まもなく、ユダヤ人とアラブ諸国との間で戦闘が始まりました。

2024年の「ナクバの日」(5月15日)に合わせて、米国で開かれたパレスチナ支持のデモ(写真:ロイター/アフロ)

 ユダヤ人は1948年5月に「イスラエル建国」を宣言し、第1次中東戦争になだれ込みます。この戦争でパレスチナ人の半数、約70万人が土地を追われ、難民となりました。パレスチナ人はこの悲劇を「ナクバ」と呼び、決して忘れることはありません。

 ガザにも大勢のパレスチナ人がたどりつきました。サラ・ロイ著『ホロコーストからガザへ:パレスチナの政治経済学』によると、その数は20数万人。ガザの元の住民は7万人でしたから、3倍超の人々が押し寄せたことになります。

 第1次中東戦争は1949年に停戦協定が結ばれ、イスラエルはパレスチナ地区の77%を実効支配することになりました。ガザの範囲も現在とほぼ同じ面積まで狭められ、エジプトの支配下に置かれます。

 しかし、エジプトはガザを併合しませんでした。資源に乏しく、住民の多くが難民で占められているガザをエジプト内部に抱え込むことは、不安定要因にしかならないと考えたようです。