当然ばあさんも、自分はばあさんだとは金輪際思っていない。

 昨年、「徹子の部屋」にキャシー中島が出た(2024年1月11日の回)。番組に出たとき、彼女は72歳だったが、“まったくそんな年だと思っていない”と語っていた。

64歳のころのキャシー中島。舞台「横浜グラフィティ」の製作発表会に出席したときのもの(2016年5月31日、写真:産経新聞社)64歳のころのキャシー中島。舞台「横浜グラフィティ」の製作発表会に出席したときのもの(2016年5月31日、写真:産経新聞社)

 驚いたのは、黒柳徹子はそのとき90歳だったのだが、キャシーの発言に我が意を得たりとばかりに、食い気味に「わたしもそう」と同調していたことである。

 91歳の五木寛之は、自分は老人ではないと明言していたわけではない。しかし、90歳だった黒柳のこの発言は貴重である。

老人の自覚がなくなるときとは

 もうひとり、べつの証言者にもご登場願おう。

 エッセイストの中野翠は、60歳の還暦になったとき、「世間的にはもはやバアサン」ということになったが、「それなのに、私は老いというものをあんまり実感できなかった。ピンと来なかった」(『ほいきた、トシヨリ生活』文春文庫、2022)と書いている。

 しかしわたしはもはやこんな程度では、まったく驚かない。

 中野は現在78歳だが、その78にも「実感」はないはずである。

 女子はたぶん、じいさん以上に、したたかである。

 実際に訊いてみたことはないが、老婆になっても、だれが老婆だって? わたしはまだ若いよ、と思っているにきまっている。

 ではあるのだが、老人に、老人の自覚は当然ある。

 あたりまえだ。老人なのだから。

 顔にはシワとシミ、髪の毛は薄くなり、白くなっている。衣服で隠されてはいるが、筋肉はなくなり、体はたるみ、骨はたぶんスカスカだ。

 わたしは腕立て伏せも懸垂も、1回もできなくなってしまった。

 ただそれでも、無我になる(我を忘れる)とき、老人の自覚はないのだ。見た目ではなく、感覚なのだ。

 五木寛之はこうもいっていた。

「体は枯れても、心は枯れない。/この不自然な矛盾が、高齢者の生き方を厄介なものにするのである」

「厄介」なのは、無我になったときではなく、つねに「オレはまだ若いゾ。若いやつよりカッコいい、金も地位もあるイケオジだ」と意識して意地を張る老人である。

 老齢や老体じたいを無理に否定しているのだ。この種の我執老人の情欲がこぼれ出ると、パワハラやセクハラ老人になるのではないか。

 人は我を忘れているときが、一番幸せなような気がする。

 しかし惜しいことに、無我の時間は長くつづかない。普通の老人にあっても、我執は自らの情欲によって、幸せな時間を平気で壊すのである。