年寄りはだれひとり、自分が老人だとは思っていない(これはいいすぎ。最近、年上の知人から、自分はそうは思わないなあ、といわれた)。
これは老齢以前の人にとっては、衝撃の事実ではないだろうか。「ええ? 年寄りは年寄りの自覚がないのか」というように。
老人の方は、みなさんも自問してみてください(老人でなくてもいい。現在49歳のある男の編集者は、自分はいまでも27、8のつもりです、といっていた)
深夜の居間か、喫茶店でか、公園でか、どこでもいいのだが、ひとりでぼんやりしているとき(つまり無我でいるとき)、自分を老人と意識しているかどうかを。
いわれてみれば、そういうとき「おれは自分がじじいだと思ってはいないな」と、思われないだろうか。
キャシー中島の言葉に黒柳徹子は
五木寛之もまた、こんなふうにいっていた。
「年寄りになったからといって、枯れないのが人間の心というものである。いやむしろ身体的に衰えた分だけ、世俗的な欲望は高まってくるのではないか」(『うらやましいボケかた』新潮新書、2023)。
五木がこれを書いたのは、2年ほど前(91歳)だと思われるが、人間は老人になっても「心は枯れない」、すなわち、わたし(心)は老人ではない、といっているのだ。
たとえば、老爺(あるいはおじさんたち)が、若い女性演歌歌手に声援を送ったり、グラビアモデルの写真を見たりするとき、自分がじいさんであることを忘れている。
まさか青年のつもりではなかろうが、壮年ぐらいのつもりはあるかもしれない(もしかしたら、「気分はペーペーの若者」か)。
またたとえば、老婆(あるいはおばさんたち)が、純烈やEXILEや韓国の歌手グループに「推し活」をするとき、もしかしたら乙女のような年齢に若返っているのかもしれない(それはないな。乙女は純烈に惚れたりはしない)。
老人も相当図々しいな、と思うのはまちがっている。いや、図々しいのはそのとおりだが、そもそも人間が図々しいのである。
老人というからには、じいさんだけではない。