
(勢古 浩爾:評論家、エッセイスト)
わたしは自分が、いつごろから「おれ」といい始めたのか、まるで記憶がない。ただ小学校1、2年ごろまでは、自分が考えた呼び名(なぜか「コータ」といっていた)で自分を呼んでいた記憶がある。
わたしはこれまで生きてきた77年間で、「ぼく」といった記憶がないから、小学2、3年ごろにはすでに「おれ」といっていたのだろう。
「よし、今日からおれといおう」と意識したのではないと思う。わたしが生まれ育った大分県南西部では、「おれ」「おまえ」があたりまえだったのだ。
自分の子どもや親せきの子どもを見ていた記憶でも、かれらが「おれ」といい始めたのは小学2、3年ごろだったように覚えている。
おそらくクラスのだれかの影響だろうと思うが、ただまだ不慣れのせいか、最初の頃は一様に「おれ」といっていた。「お」に力点があったのだ。しかしそれも徐々に普通の「おれ」になっていった。
「おれ」という呼称が持つニュアンス
なぜ男の子は、だれに強制されたわけでもないのに、「おれ」というようになるのか(強制されるなら、ぼくといいなさい、の「ぼく」だろう)。
おなじ頃、男の子は「うんこ」という言葉にも惹かれるみたいだ。クレヨンしんちゃんは園児だが、この子の下品な言葉遣いを、子どもたちが喜び、共感するように。
「おれ」という呼称には、なにか強さや、男らしさや、ふまじめさが象徴されているように思われる。
男の子はそれに惹かれるのではないか。あるいはホモソーシャル(男同士の緊密な連帯感)の意識の発芽でもあるのか。
いずれにしても、「おれ」というのを咎めるようというのではない。そんなことはできない。それは自然な成長過程の一部分だからである。
しかし中学、高校と成長するにしたがって、言葉遣いはやがて意気がったべらんめえ口調になっていく。
この頃には、あきらかに自分を実体以上に強く見せたいという意識が働いているように思われる。ことさらに粗野な言葉やぞんざいな言葉遣いをするのだ。