桑田はそのことで一時、自殺寸前にまで追い込まれた(ちなみに俗情まみれの日本のマスコミは、おなじ調子で江川卓を叩き、大リーグに挑戦した野茂英雄を叩いた。この体質は今も変わらない)。

 それらの風評に乗せられそうになっていたわたしは、桑田の『試練が人を磨く――桑田真澄という生き方』(扶桑社文庫、2007)や『心の野球――超効率的努力のすすめ』(幻冬舎、2015)を読んで、桑田真澄という男を尊敬するようになった。

 恩師である元PL学園高校の中村順司監督からは、「クワタ、常に謙虚にいこう。偉そうになっちゃいかん、天狗になったらダメだぞ」といわれた。

「KKコンビ」と呼ばれた、PL学園時代の桑田真澄と清原和博(1985年2月、写真:岡沢克郎/アフロ「KKコンビ」と呼ばれた、PL学園時代の桑田真澄と清原和博(1985年2月、写真:岡沢克郎/アフロ

 中村監督は「勝った」という言葉は使わなかった。「勝たせていただいた」といった。桑田が、「人生においても、『生きている』と思うのではなく『生かされている』と考えるようにしているのも、中村監督に教えていただいたこと」だといっている。

 桑田は現在ではいつも穏やかな話しぶりだが、小学校の頃は「相当なやんちゃ」だった。信じられないことに、口よりも先に、手が出るほど「喧嘩っぱや」かった。

 こういうことがあった。ドッジボールをするため、学校に早くいって仲間とはじめようとしていると、上級生たちがやってきた。かれらは桑田たちを無視して、我が物顔で自分たちがやりはじめた。

 そのとき、いまの桑田からはちょっと想像できないが、かれは河内言葉で「なんや、われぇ、オレが先にとってるやないけ」と食ってかかったというのだ。

 先輩後輩なんか関係なかった、「なんや、このクソガキがぁ」「なんやねん」と、けんかになった。「そういうずるいことが許せなかったから年上ともしょっちゅう喧嘩をしていた」(『心の野球』)。

言葉遣いに気を配る意識

 わたしがとくに感心したのは、桑田が言葉遣いに気をつけていることだ。

「たとえば、僕は『メシを食う』という言い方に抵抗がある。だから僕は、若い頃から、『メシ、食いに行こう』とは言わないで、必ず『食事に行こうか』『何か食べに行こうか』と話している」

 こういう細かいことに気を遣っている人間は、これまでわたしの知る限り、だれひとりいなかった。この言葉遣いに関しては、桑田にはこういう意識がある。

 プロ野球選手は社会から「何だか軽いイメージで見られている気がする」。会話を聞かれることも多いから、「そうしたときに、きれいな言葉で丁寧に話すことを心がけるのは、本当に大事なことだと思っている」(同前)