即、「思いませんよ」といいきっている。
いいなあ。はっきりしていて。
思うわけがないじゃないかと、いう口調である。だってもうすぐ80になるのに、じじいとは「絶対」思わない、と今いったじゃないか、と。
70になっても80になっても
けれどわたしは、ふふ、この二人の掛け合いはおもしろいな、とのんきに思っただけで、この部分も読み飛ばしたのである。
ところが、ふたりは重要なことをいっていたのだ。
思えば南伸坊は、この対談の前の本でもこう書いていた。
「私はいま、67歳であって、歴(れっき)とした前期高齢者であるけれども、『おじいさん』のつもりがまだないのだ」
あるいは――
「ははは、昔はよかったなあ。と思うなら、今は、なるほど『おじいさんになった』理屈だけれども、どうしてもその実感が伴わない。冗談でも嘘でもなく、いまでも気分はペーペーの若者なのだ」(南伸坊『おじいさんになったね』(海竜社、2015)
いまにして思うのである。
南伸坊と養老孟司は衝撃的なことをいっていたのだ、と。
ふたりは70になっても80になっても、自分が老人だとはすこしも思っていないのである。
そしてわたしに関していえば、「おれは、自分がじいさんだとは思ってないな」と気づいたのは、3年ほど前のことである。
ある日突然
ある日の深夜、突然、そう思ったのである。こうしてDVDを見ているときも、本を読んでいるときも、昼間自転車に乗っているときも、店で蕎麦を食べているときも、老人という意識はまったくないな、と気づいたのである。
これはわたし自身にとっても衝撃だった。
そして、そういえば南伸坊が前からそういうことをしきりにいっていたな、と思い出したのである。