放送・配信のされ方もかつてない異常さがあった

 それだけではない。記者会見会場がかつてないかたちで放送、配信されていた。フジテレビは10時間の会見のすべてを地上波で放送した。19時から21時の時間帯で約13%を記録したというから、通常の記者会見とは異なるレベルで視聴される会見となった。

 質問は基本的に媒体名と名前を名乗って行われていた。「質問する側」もかつてないほど可視化されたのである。視聴者や読者は通常、出来上がった報道コンテンツを目にするので、そのコンテンツがどのように制作されたのか、その過程でどのような質問がなされたのかを目にする機会はほとんどないはずだ。

 ところが今回の会見は、質問者の姿が多くの視聴者の目にさらされることになったのである。そのことを現地の質問者たちは意識していただろうか。野次というべきか、不規則発言で音声がとまることもあったが、これは会見のルールを無視し、匿名性の影に隠れた卑怯な姿として視聴者の目に映ったのではないか。

 フジテレビの経営陣が強いストレスを受けたはずだ。筆者も長くコメンテーターを務めてきたので、そもそもメディアで話すことのストレスの片鱗は想像できる。強い光に照らされながら、数百万単位の視聴者が見ている可能性と同時に、企業と元従業員を守りながら脊髄反射的回答が求められるのである。それがいつ終わるともしれないのだ。

 それと比べれば、質問者はあまりに気楽だ。媒体名と名前を名乗るにしても、正面から顔が映されるわけでもなく、ある意味では、好き勝手に質問してもディレイがあるため、編集される可能性があると期待できてしまう。集まった記者の人数も400人であり、不祥事に関する事項だけに、視聴者も基本的には味方に思えたのだろう。

 だが、10時間がほぼライブ配信され、多くの人が関心を向ける異例の会見となったことで、様々な非対称性に違和を持たせることになったのではないか。

 それがメディアや記者という、ある意味大きすぎる対象への不信感をもたらすようでは困る。今後の教訓とするべきだ。

 こうした問題は何もフリーランスだけに限らない。記者クラブ記者も同様だ。終盤には「フジサンケイグループとはなにか」というような質問がなされていた。あまりに予習不足、勉強不足ではないか。そもそもそんなことは自分で調べればよいのであって、わざわざ記者会見会場で聞くべき事項かといえば、とてもそうは思えない。

 メディアの世界では長く「記者は究極のアマチュアであるべき」という主張と「記者も専門家であるべき」という主張が戦わされている。前者は、ジャーナリストは読者や視聴者の代表として、予断を徹底的に排して、また専門家が専門家ゆえに見落としがちな広い視点から取材に挑むべきであるという規範に支えられている。それに対して後者は、記者にも専門性が必要だという規範である。

 もちろん現実的には両者のバランスが重要だ。しかし私見では、その他の日本的組織にも幅広く認められることだが、組織都合の人事と現場教育が重要視されてきたこともあって、組織ジャーナリズムの存在感が大きな日本の報道現場では、専門性が決定的に不足しているという印象が強い。

 高度に複雑化した現代の諸問題を前にするとき、解決するのみならず問題を紐解き、多角的にまた深く「正しく伝える」ような場合においても、やはり相応の専門性が必要なのではないか。その専門性を記者たちは有しているだろうか。

 各社のコスト制約は明らかだ。そのような専門人材に限らずヒューマン・リソースが恒常的に乏しく、職業教育、いわゆるリスキリングにかけられるコストに余裕がないことも明らかである。そうはいっても、新聞は150年の歴史を有し、軽減税率の対象とされ、放送事業者は伝統的に電波の独占と放送法の規律に服する公共性の高い事業者であることから、時代の変化に対応できる取材手法と、優れた記者育成は急務といえる。

 蛇足だが、独自の観点や掘り下げ、根拠が乏しい『週刊文春』依存質問は、『週刊文春』の「訂正」を通じて、一部はしごを外される格好になった。

「フジテレビ・中居問題 記事の訂正について」【編集長より】:文春オンライン

フジテレビ社員の関与を巡る週刊文春の報道とフジの対応(図表:共同通信社)フジテレビ社員の関与を巡る週刊文春の報道とフジの対応(図表:共同通信社)
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 より各記者が独自の質問を用意できていれば、そうはならなかったかもしれない。なお訂正を経ても、当事者間の問題の深刻さは増しているし、同時にフジテレビの管理者としての責務は厳しく残されたままである。

 会見では、性的加害の有無や過程に関心が強く向けられたが、むしろフジテレビの従業員保護、つまるところ労働法制上の懸念が浮き彫りになったのではないか。