五代友厚の留学生計画―その第1段階
五代が提案した留学生派遣計画であるが、これも実に微に入り細に入りで、極めて用意周到である。五代の提案は、おおよそ2段階に分けられている。第1段階は、通訳1名を含む17名を、150日ほどイギリス・フランスに派遣するプランで、留学というよりは、むしろ視察団と称した方が適切かも知れない。
家老職などの上級家臣9名には軍務・地理・風俗の視察、その他通訳を除く7名は分担して農耕機械、砲台築城、大砲・小銃製造、病院・学校等の設置などに関して調査を行うと提案する。このように、視察・調査の分野は思いの外、幅広く設定されていたのだ。
なお、上級家臣には即時攘夷を唱える壮士から3名を選ぶとしており、このあたりが、いかにも五代らしくて面白い。当時、薩摩藩の最高権力者である島津久光はじめ、薩摩藩の要路は未来攘夷を志向しており、積極的な貿易によって、富国強兵を目指していた。五代もまた、その1人である。
一方で、下級藩士になればなるほど、即時攘夷に凝り固まっており、薩英戦争によって、西欧の圧倒的な軍事技術の優位性を実感してもなお、なかなか未来攘夷を認めることが出来ない者も少なからず存在した。もちろん、上級家臣の中にも、過激な攘夷論者は皆無ではなかった。五代は、特に攘夷を唱える藩士の中でも、将来の藩政を導く上級家臣の中から攘夷尊奉者を選び、イギリス・フランスを実見させて、開国派に転身させようとしたのだ。
いくら下級藩士が西欧の新しい知見を吸収して帰国しても、上級家臣が相変わらず固陋な即時攘夷主義者であれば、どうなるであろうか。結局、下級藩士の意見などには聞く耳も持たず、せっかくの富国強兵の機会を逸することになりかねない。五代は、そこまで見通して上級家臣の派遣にこだわり続けたのだ。
五代友厚の留学生計画―その第2段階
五代は留学生の派遣計画の第2段階として、藩校の造士館から才気ある年少者50から60人、さらに多少年長の20人ほどを選抜する。そして、彼らを西洋諸国に派遣し、陸海軍事技術はもちろんのこと、天文、地理、製薬などを研究させることを提案した。
その期間は明示されていないが、おそらく数年単位の留学が期待されていたであろう。さらに、帰国後は熟練者を教師として、藩内各地に学校を設立すべきであると提言した。非常に先を考えての、実践的な内容である。
実際の薩摩スチューデントは、この第1段階と第2段階の折衷案となった。たしかに、その規模も財政事情から縮小されたものの、しかし、その基本構想は五代の上申書がそのまま活かされたことになる。五代こそ、薩摩スチューデントの生みの親に他ならないのだ。
次回は、実際に派遣された薩摩スチューデントのメンバーがどのように選抜されたのか、また、選抜メンバーの対応について、その実相を紐解きたい。