トーマス・グラバー像 写真/フォトライブラリー

(町田 明広:歴史学者)

グラバーの助けを借りた五代友厚の上申書

 五代友厚は、薩英戦争(文久3年、1863)によってイギリスの捕虜となったが、横浜で解放され、しばらくは関東で潜伏していた。その後、元治元年(1864)1月ごろ、長崎に潜入したのだ。そして、既に肝胆相照らす仲になっていたグラバーによってかくまわれた。

 五代は長年構想を練っていた富国強兵のための海外貿易や留学生派遣についての思いをグラバーに熱く語った。そこで、その構想の青写真を共同で作成することになったのだ。これが「五代才助(友厚)上申書」(『薩藩海軍史』中)である。こうした経緯から、薩摩スチューデントにかかわる一切の面倒は、このグラバーが見ることになった。

 ところで、この上申書はいつごろ書かれ、また、どのようにして藩政府に提出されたのか、実は判然としない。五代の長崎潜入は、4月に藩の知るところとなり、5月には家老である小松帯刀から上海行きを勧められていた。つまり、亡命である。

 五代は小松とは個人的に親しく、そうした関係から小松は五代の身の安全を憂いたため、上海行きを勧めたのだ。ちなみに、明治になって、五代は小松と同日に官を辞しており、小松亡き後は、五代が小松の遺族を保護している。

小松帯刀

 五代が藩への帰参を許されたのは、元治元年6月とされる。上申書の中には、新たに6月に設置された開成所への言及がないことから、上申書の完成・提出は、まだ帰参が許されていない5月ごろとするのが妥当であろう。この受理に関しても、小松との関係がプラスに作用したことは間違い。なお、開成所については、次回、説明を加えたい。