しかし、球団側の営業努力も十分とは言えなかった。
ロッテオリオンズが、千葉市にできた千葉マリンスタジアムを本拠として「千葉ロッテマリーンズ」と名前を変えたのは1991年のことだが、当初、観客動員は伸び悩んだ。当時を知る元球団職員は
「最寄りのJR海浜幕張駅で毎日、無料のチケットを配ったが、受け取ってもらえないことが多かった。地元の人はタダでも野球を観なかった」
と語る。
「観客なんて来るわけない」が当時の球団経営者の感覚
筆者は1980年代後半、南海ホークスの本拠地、大阪球場に通い詰めていたが、入場口の横には無料招待券が山積みされていた。係員は、近所に住む子供に招待券を渡して「誰でもいいから連れて来てくれ」と言っていた。
南海ホークスが福岡に移転したのは1988年のことだった。本拠地の大阪球場は10年後に取り壊され、その跡地には「なんばパークス」という商業施設が建った。
このあとで、南海電鉄の関係者に話を聞く機会があったが「南海ホークスがあったころの大阪球場は、年に100万人も動員できなかった。でも『なんばパークス』は2000万人も来場する。プロ野球を手放してよかった」と語っていた。
要するに、当時のプロ野球経営者は「お客なんて来るわけがない」と思い込んでいたのだ。当時から各球団が「ファンクラブ」のようなものを持ってはいたが、それはごく少数の「贔屓筋」へのサービスに過ぎず、ファンクラブを集客の核にするような発想はなかった。