月照とは、どのような人物か
ここで、明石に大きな影響を与えた月照(1813~58)について、紹介しておこう。月照は江戸末期の僧でありながら志士として活躍し、勤王僧として有名である。文化10年、讃岐(香川県)出身の大坂の町医である玉井宗江の子に生まれた。
文政10年(1827)、月照は叔父である清水寺成就院住職の蔵海の下で得度し、天保6年(1835)には成就院住職となり、同院の復興に尽力した。孝明天皇の側近として活躍した青蓮院宮(中川宮、朝彦親王)や関白にも就任した近衛忠煕ら廷臣とも関係を構築し、近衛の下では和歌を学んだ。
安政元年(1854)、月照は住職を弟の信海に譲って国事周旋に奔走し始めた。安政5年(1858)、日米修好通商条約が結ばれると、梅田雲浜や頼三樹三郎らと画策し、関白九条尚忠の裁可を経ず、さらに、幕府も経由せずして水戸藩に幕政を批判する勅諚を下すことに成功したのだ。いわゆる、戊午の密勅である。
戊午の密勅が契機となり、大老井伊直弼は何とか水戸藩・徳川斉昭を追い詰めようとして、安政の大獄の幕を切って落とした。大獄が始まると、月照は幕吏から追われて西郷隆盛や平野國臣らとともに、鹿児島に向かった。しかし、薩藩藩の庇護は受けられなかったことから、月照は死を覚悟して、西郷とともに錦江湾に入水した。西郷は蘇生したが、月照は息を吹き返すことはなかった。享年46であった。明石は、この月照の門下であったのだ。
次回は、明石がどのような学問を学んだのか、また、七卿落ちの錦小路頼徳との関係や京都医学研究会・煉眞舎(れんしんしゃ)の設立の経緯を紐解き、さらに、写真研究としての明石に光を当て、徳川慶喜とのつながりについても考察を加えてみたい。