明石の明治以降の功績
幕末期の明石博高に触れる前に、明石の名を歴史に刻んだ明治以降の事績について、紹介をしておこう。
明治維新を迎えると、東京奠都が行われて、明治天皇の御座所が江戸から改称された東京に移動した。これまで通り、京都に天皇が居続けて、京都が都のままであり、かつ新国家の首都となることを期待していた京都市民は、大きな失望感を覚えたのだ。それに伴い、京都の経済はあっという間に大きく衰退し始め、歯止めがかからない状態に陥ってしまった。
そのような過酷な低迷時代から抜け出すために、京都府参事(後の知事)で長州藩出身の槇村正直、顧問で会津藩出身の山本覚馬、そして明石が中心となって、官民一丸となり様々な近代化に向けた事業に取り組んだのだ。ちなみに、槇村・山本・明石のトリオは、2013年大河ドラマ『八重の桜』に登場しているため、記憶がある読者もおられるかも知れない。
明石らが取り組んだ近代化事業とは、西欧諸国の技術や学問を取り入れ、文化や産業の振興を図ることがベースであり、具体的には、日本初の小学校創立を始め、集書院(図書館)、勧業場、舎密局、療病院などを積極的に建設し、驚異的なスピードによって、革新的施策を推進することを目指した。
特に明石は、京都近代化の要となった産業や医療、理化学などを革新する中心的役割を果たし、お雇い外国人から吸収した豊富な知識を背景にして、様々な制度・施設などを作り出したのだ。明石の一般的理解とは、こうした明治以降の活躍であるが、以下、幕末期の明石の動向を探っていこう。
明石博高の生い立ち
天保10年(1839)10月4日、明石博高は京都市下京区の四条通堀川西入唐津屋町で生まれた。名は博人、号は静瀾と称した。父は代々の医薬舗「浩然堂」を営む弥三郎であり、母は浅子であった。明石は5歳で父を亡くし、外祖父で蘭方医の松本松翁に育てられ、西洋医術・化学製薬術を学修した。
幼少時代、桂和章から読書・習字・数学、儒家・紳山鳳陽から漢文学、長じて桂園派門下の五十嵐祐胤から国文学・歌道を学んだ。また、清水寺の月照から国学、密厳院の清厳和尚から梵釈、信亮僧正から台教を教授された。
明石の関心は多岐にわたっており、今で言うところの文系・理系いずれにも長じた、天賦の才を持っていたことは間違いない。