近代社会でも、実は「生まれ」で将来が決まっている
京大は東大とならんで、いわゆる学力偏差値が、国内でもっとも高い層が入学してくる大学だ。多くは、将来的に国内外で、社会全体、あるいは会社等の組織において重要な決定に携わり、周りの人々を牽引していく存在となっていく。
ここで、社会学の重要概念である「階層」という言葉を用いるならば、日本社会も、他の社会と同様に、いくつもの階層(社会的地位)によって構成されており、そのなかで京大出身の人々が到達する階層は、相対的に高いと言い得る。ここで問題なのは、なぜ、彼らが、高い階層に到達するかである。
「高い能力を持っているから、高い収入や地位を得るのだ」と漠然と考えている人は多いだろう。これは、近代社会にあまねく普及している考え方で、メリトクラシー(能力主義)と呼ばれる。
前近代社会では、職業が世襲されることに象徴されるように、到達階層が「生まれ」によって決定されていたのに対して、近代社会は、能力によって階層が決定されるメリトクラシーを基調とした社会である、と説明される。
問題は、「生まれ」による決定が、近代社会で本当になくなったのかである。
実は、社会学者は、さまざまな角度からこれを否定し続けてきた。ただ、人々の肌感覚では、「生まれ」の要素は「ないことになっている」ため、素朴に「高い地位・階層にいる人々は、それにみあう能力を、その人の努力によって身に付けたのだろう」と考えてしまいがちだ。
なぜ、この授業を京大の新入生向けに開いたか?
晴れて京大に入学してきた1年生たち。多くの新入生は、京大に入学できたことを誇らく感じ、これは自分の努力によって成し遂げられたものだと信じている。
ディスカッションの様子からわかるように、明らかに「生まれ」による有利さを持っている学生も多いのだが、そのことに意識が及ぶ学生は、ほぼ皆無だ。教育格差について学ぶ機会が、これまで彼らには乏しかったのだから、それは無理もない。
2019年4月、東大の入学式で、社会学者の上野千鶴子氏が新入生に訴えたメッセージが、反響を呼んだ。
いわく、「がんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください・・・・・・恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください」。
筆者がこの授業を通じて、京大の新入生に伝えたかったメッセージは、まさにこれである。
もちろん彼らが、多かれ少なかれ、苦難に満ちた受験勉強を続けてきたのは確かで、それを否定するつもりは毛頭ない。しかし、「生まれ」による格差が生じていることを知らないまま、自らのポジションは「生まれ」ではなく、自分の努力のみによって獲得したものだと信じ切ったまま卒業していくのは、危ういことではないか。
そのような思い込みを維持したまま、役所や民間企業の幹部など、相対的に権力を行使しうる立場に身を置くことは、社会にとってけっして望ましいことではないだろう。
教育格差という切り口で、この社会の実状を知っておくことは、将来、各方面でリーダー的存在になるであろう彼らにとって重要な意味があると、筆者は考えたのである。
(第3回につづく)