興味深い文書は信長書状以外にも

 4階には信長からの書状のほかにも、重要かつユニークな書状が並ぶ。ひとつは細川藤孝の直筆書状。これまで藤孝の書と認識されていなかったが、2023年の調査により発見された。本状が出された時期は藤孝が古今伝授を受けた直後であると比定されており、細川家の歴史の中でも重要な位置付けの書状であると言える。

 古今伝授は『古今和歌集』の秘伝とされる解釈を師から弟子へと伝えていくことであり、それを受けた藤孝の教養の深さを伝えるものだ。本状は京都にいる藤孝の家臣・的場甚右衛門らに宛てた手紙で、一向一揆の戦いに赴いている藤孝が遠隔地から差し出したものであるとされている。

 的場に家作りを急かす内容から、居城である勝龍寺城に学芸のコミュニケーションの場を造ろうとしていたのではないかという。藤孝は勝龍寺城でも古今伝授を受けているので、勝龍寺城を文芸の場にふさわしいものに変えていこうとしたようだ。血生臭い戦場に立つ武将である藤孝の、教養人としてのもう一つの姿を見せてくれる一通である。

重要文化財「明智光秀覚条々」 細川藤孝・忠興宛 (天正10年〈1582〉)6月9日 永青文庫蔵

 もうひとつは明智光秀からの直筆書状だ。本能寺の変からわずか7日後に書かれたもので、なぜ信長を討つに至ったかが書かれた貴重な史料である。この時すでに藤孝・忠興父子は信長の死を受けて剃髪し弔意を示していた。それに対して光秀は「当初は立腹したが思い直した」と綴っており、率直な感情を吐露している。そのことからも藤孝と光秀は実に密な関係であったことが窺えるだろう。そして自分に味方してほしいと願う光秀の切なる思いや臨場感が伝わってくる。

 さらにもう一通、石田三成が忠興に宛てた書状についても言及したい。こちらは筆者が個人的に推したい文書だ。詳しい背景はわからないが、27歳の石田三成が24歳の忠興に、「いいことがあったから金を貸し付ける。忠興もいくらか金子を出資しないか」と提案している書状である。金銭感覚に鋭い三成らしい文書ではないか。

 一般的に石田三成と細川忠興は不仲で、関ヶ原においても敵対関係にあったとされることから、若き日の両者がこのようなプライベートなやりとりをしていたということに驚きだ。のちのことを知る我々にとっては切なさすらも感じられる文書である。しかもこの書状は細川忠興が記した「風姿花伝」の裏紙から発見されたという。そのエピソード込みで大変興味深い一通である。

 本展示の目玉となる書状を追ってきたが、歴史オタクたちが書状が焼かれるドラマを見て叫び声を上げる理由がお分かりいただけたのではないかと思う。400年以上も前のことが今のことのように伝わってくる生々しさ、臨場感が書状の醍醐味であり、この面白さに気がついてしまうとあとはもう「書状沼」一直線なのだ。もしかしたら発見されていないだけでほかにも面白い書状が眠っているのかもしれない。そう思うとロマンを感じずにはいられないのだ。

 書状はその時々の、人の感情の一瞬一瞬を留めてくれるものである。本展覧会は厳つい鎧や得物が並んでいるわけでもない、華々しい合戦屏風絵があるでもない、一見すると地味に見える。そこには紙と、綴られた文字があるだけ。しかしその中には、織田信長と細川家と、それを取り巻く武将たちの切実なるリアルが存在する。繰り返しになるがこれだけのものを後世に残してくれた先人たちに感謝を込めつつ、ぜひその圧倒的な事実を目撃しにいくことをお勧めしたい。

 

「信長の手紙ー珠玉の60通大公開ー」
会期:開催中~2024年12月1日(日)※会期中、一部展示替えあり
会場:永青文庫
開館時間:10:00~16:30 ※入場は閉館の30分前まで
休館日:月曜日(10月14日、11月4日は開館)、10月15日、11月5日
お問い合わせ:03-3941-0850

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