大河ドラマ『光る君へ』第30回「つながる言の葉」では、泉里香が演じる「あかね」こと和泉式部が初登場し、話題となった。『後拾遺和歌集』恋三にも採られ、百人一首にも選ばれている。

あらざらむ この世のほかの思ひ出に いまひとたびの あふこともがな

(まもなくこの世ともお別れなので、あの世での思い出になるように、もう一度、逢いたい)

などの和歌で知られ、『和泉式部日記』や『和泉式部集』などが残る、恋多き歌人、和泉式部を取り上げたい。

貴船神社の絵馬 写真=フォトライブラリー

文=鷹橋 忍 

和泉式部の名の由来は?

 和泉式部の生年は諸説があり、確かなことはわからないが、ここでは天元元年(978)説で、彼女の年齢を算出する。

 父・大江雅致は、秋山竜次が演じる藤原実資の日記『小右記』長保元年(999)9月22日条に、太皇太后宮大進であったことが記されている。

 太皇太后とは、昌子内親王(朱雀天皇の皇女、冷泉天皇の皇宮)のことだ。

 のちに雅致は木工頭と越前守を歴任した(『御堂関白記』寛弘7年(1010)3月30日条)。

 受領層の中級貴族である。

 和泉式部の母は、越中守平保衡平の娘で、太皇太后宮昌子の乳母であったと、『中古歌仙三十六人伝』には記述されている。

 和泉式部も父母の関係から、少女の頃から昌子内親王に仕えたと推定されているが、文献による証拠はないという(山中裕『人物叢書 和泉式部』)。

 やがて、和泉式部は最初の夫である橘道貞と結婚する。

 和泉式部は結婚後の呼称で、この橘道貞が長保年間(999~1004年)に、和泉守であったからだという。

 

最初の夫・橘道貞

 和泉式部と橘道貞がいつ結婚したのかは定かでないが、長徳元年(995)か、長徳2年(996)頃と考えられている。

 結婚時、和泉式部は数えで18~19歳くらいであったのに対し、30歳を過ぎていたと推定されている(校注/訳 藤岡忠美 中野幸一 犬養廉『完訳 日本の古典 第二十四巻 和泉式部日記 紫式部日記 更級日記』)。

 道貞は、藤原道長にも重用された能吏であったという。藤原道長の日記『御堂関白記』に、その名がよく見られる。

 和泉式部と道貞の間には、長徳3年(997)頃、女子が誕生している。歌人として知られる小式部内侍である。

 道貞の和泉守在任中、和泉式部は夫の任地に下向したこともあったようで、はじめは夫婦仲もよかったと推定されている(山中裕『人物叢書 和泉式部』)。

 やがて二人は不仲となり、和泉式部と為尊親王との恋がはじまる。