敦道親王との熱愛

 敦道親王は冷泉天皇の第四皇子である。

 天元4年(981)生まれで、和泉式部より3歳年下となる。

 為尊親王と同じく、道長の甥にあたり、祖父・藤原兼家から長兄・居貞親王とともに、大変に可愛がられたという。

 大宰帥(だざいのそち)となったため、帥宮(そちのみや)とも称された。

 容姿と文才に恵まれた貴公子だった。

 この敦道親王との恋の十ヶ月を、優れた歌を交えて物語ふうに綴ったのが、『和泉式部日記』(『和泉式部物語』とも/和泉式部の自作説、他作説あり)である。

 またもや身分違いの恋がはじまり、同年(長保5年)12月18日には、敦道親王は和泉式部を自邸に住まわせ、寵愛した。

 そして、翌寛弘元年(1004)正月、敦道親王の北の方(正妻)が、無言で邸を去っていくところで、『和泉式部日記』は幕を閉じる。

 略奪愛といわれるが、和泉式部も正式な妻ではない。

「召人」という愛人を兼ねた侍女であり(川村裕子『ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 和泉式部日記』)、父親がいる貴族女性にとって屈辱的な立場だったという(繁田信一『『源氏物語』のリアル 紫式部を取り巻く貴族たちの実像』)。

 一方、橘道貞は陸奥守に任じられ、同年3月に任地へ向かった。

 のちに道貞は、和泉式部ではない女性を任地に呼び寄せており、これ以前に、和泉式部と離別したとみられている(校注/訳 藤岡忠美 中野幸一 犬養廉『完訳 日本の古典 第二十四巻 和泉式部日記 紫式部日記 更級日記』)。