晩年と死期
和泉式部の晩年の様子は、よくわかっていない。
『栄花物語』巻第二十九「たまのかざり」に、万寿4年(1027)、道長の娘の皇太后・妍子の法事において、大和守として任地にあった夫・藤原保昌の代わりに、玉を献上し、和歌を詠んだ記事があるが、以後の消息は不明である。
没年も明らかではない。
ただ、保昌は長元9年(1036)9月に79歳で死去しているが、その死を悼む歌がないことから、保昌より早くこの世を去ったと推定されている(山中裕『人物叢書 和泉式部』)。
多くの恋愛を重ね、妖艶な恋歌をうたい上げた和泉式部は、ドラマの「あかね」のように、華やかで奔放で、才能溢れる魅力的な人物だったのだろう。