あらゆる状況の人を自分事に感じてしまう

朝比奈:「あの子は」とお互いに言い合いながらも、「あの子」の気持ちも感覚も考えていることも分かる。それを実感して書けば書くほど、自分の思考も記憶も感覚も心も自分のものではないとしたら、自分とは何なのか。自他の境界のなさに、どこか哲学的な、あるいは宗教的な恐怖さえ感じました。ますます自分がなくなっていく。「参ったな」と思いました。

 ただ、こうした感覚は、書き手の僕自身の性格から来ている部分もあると思います。僕は自分の考えや感覚や記憶などにあまり執着がないのです。もっと自分に執着がある人がこの物語を書いたら、瞬と杏の間で気持ちや考えの取り合いが発生するのかもしれません。

 一方では、書きながら本当に不思議だったのは、思考も感覚も肉体も共有している2人なのに、それぞれ異なる個性を持っている。人格も異なっている。そうすると、人間の一番深い部分に、それぞれの意識や個性があって、その1段上の層で感情などが共有されている。

 2人は感情の出し方が違う。違うけれど、出した瞬間に感情は共有されて交わってしまう。でも、出す瞬間だけは、意識の奥のそれぞれの人格から発せられている。思考、感覚、感情よりも、もっと深い場所に、人格や意識があるのではないか。2人を追いながら、そう思いました。

──文芸や芸術において「障がい」や「奇形」という要素を作品に込めることには、独特の緊張感が伴うと思います。でも、朝比奈さんの作品は、本作に限らず、こうした要素が作品のアイデンティティの中核になっています。この点に関してどんなことをお感じになりますか?

朝比奈:障がいや奇形と捉えて書くとすれば、かなりの慎重さが必要になるでしょう。ただし、僕は普遍的に人間は皆一緒だと思っています。同時に、人間はいろいろ形を取ることができる。身体においてもそうで、くっ付いて生まれることもできる。一生くっ付いたまま過ごすこともできる。

 僕は植物状態の人の物語も書いたことがありますが、意識も感情もなく、ただ呼吸だけをしている。ただただ生きる。そういう生き方を全うする人もいる。その時に、僕はそうした状態を障がいや奇形とは捉えなかった。人間はあらゆる生き方ができる。そう思ってしまう。

 もちろん、障がいや病気を抱える方々の実際の苦労や、社会生活における摩擦はあります。しかし、僕は社会的な問題として物語を書いていません。どうしてもそういう書き方にならない。人間の可能性や、ある生き方として書く限りは、それをその人の表現として感じる。

 擦り切れてなんとか呼吸だけをしていたような時期が僕の人生にありました。だから、あらゆる状態の人が、いつかの自分や未来の自分のように感じてしまう。そして、そう感じると自分事のように描ける。

 障がいや病気を書くことで一番してはいけない書き方は、書いている瞬間に1000分の1でも、1万分の1でも、わが身のことのように感じることができないまま、他人事のように書くことです。僕はどうしても書く限りはつながってしまう。つながった状態でなければ書けないのです。

長野光(ながの・ひかる)
ビデオジャーナリスト
高校卒業後に渡米、米ラトガーズ大学卒業(専攻は美術)。芸術家のアシスタント、テレビ番組制作会社、日経BPニューヨーク支局記者、市場調査会社などを経て独立。JBpressの動画シリーズ「Straight Talk」リポーター。YouTubeチャンネル「著者が語る」を運営し、本の著者にインタビューしている。