3.戦争被害受忍論

(1)戦争被害受忍論の経緯

 本項は、九州大学准教授直野章子氏著「戦争被害受忍論‐その形成過程と戦後補償制度における役割」(2016年)を参考にしている。

 戦争という国の存亡をかけた非常事態のもとでは、すべての国民は多かれ少なかれ、生命、身体、財産の被害を耐え忍ぶことを余儀なくされるが、それは国民が等しく受忍しなければならないやむを得ない犠牲であり、国家は被害を補償する法的義務を負わない。

 これは「戦争被害受忍論」(以下「受忍論」)と呼ばれるロジックである。

 戦後補償関連訴訟で引用されることが多いため、受忍論を「国家無答責の法理」(国家無答責とは、国の権力行使によって個人が損害を受けても、国は損害賠償責任を負わないとする明治憲法下の原則である)と勘違いしている向きもあるようだが、そうではない。

 戦後処理によって戦後生じた損害(在外財産損失)に対して日本国憲法を根拠に補償を請求する権利(第29条第3項)を否定する論理として、1968年に在外財産補償請求事件において下された最高裁判決によって誕生し、80年代後半以降、戦時中に生じた損害への補償請求権を斥(しりぞ)ける判決において拡大適用されていったために、国家無答責の法理であるとの誤解が広まった感がある。

●在外財産補償請求事件

 さて、受忍論のリーディング・ケース(先例)となった在外財産補償請求事件をみてみる。

 1968年に最高裁判決が下されることになる事件である。次に1968年に在外財産補償請求事件において下された最高裁判決を見てみる。

 ことの始まりは1941年12月8日まで遡る。

 戦争が勃発し、交戦国となったカナダに在住していた原告は、所有財産を残したまま日本に引揚げることになった。

 原告は現地に残していた財産の所有権を失うことになった。

 そこで、所有財産が賠償の一部として処理されたことは公用収用にあたるとして、憲法第29条第3項(「私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用いることができる」)の適用を主張して、日本政府を相手に訴訟を起こしたのである。

 判決文で打ち出された受忍論は次のようなものであった。

「ところで、戦争中から戦後占領時代にかけての国の存亡にかかわる非常事態にあっては、国民のすべてが、多かれ少なかれ、その生命・身体・財産の犠牲を堪え忍ぶべく余儀なくされていたのであって、この犠牲は、いずれも、戦争犠牲または戦争損害として、国民のひとしく受忍しなければならなかったところであり、右の(対日平和条約による)在外資産の賠償への充当による損害のごときも、一種の戦争損害として、これに対する補償は、憲法の全く予想しないところというべきである」

「(中略)在外資産の喪失による損害も、敗戦という事実に基づいて生じた一種の戦争損害とみるほかはないのである」

「これを要するに、このような戦争損害は、他の種々の戦争損害と同様、多かれ少なかれ、国民のひとしく堪え忍ばなければならないやむを得ない犠牲なのであって、その補償のごときは、さきに説示したように、憲法29条3項の全く予想しないところで、同条項の適用の余地のない問題といわなければならない」

●東京空襲訴訟

 在外財産補償請求事件の受忍論が、最高裁判決が戦争損害補償請求事件の判決のなかで初めて援用されたのは、妻と幼子を東京空襲で失った遺族が1979年に起こした訴訟においてである。

 旧軍人らに対しては補償があるにもかかわらず、一般民間人の戦争被害者には何の措置も講じられていないことを取り上げて、原告は国に対して損害賠償と損失補償を請求した。

 国側は「空襲による死亡は、一般の戦争災害であるところ、戦争という国家存亡にかかわる非常事態においては、国民のすべてが多かれ少なかれその生命・身体等の犠牲を余儀なくされるのであり、その損失を被告が当然に補償しなければならないというものではなく、その補償は憲法のまったく予想しないところというべきである」と、上記のリーディング・ケースを引用して国の補償責任を否定した。

 東京地方裁判所は国の主張を採用したうえで、原告の家族の死を「公法的受忍義務の範囲内」と位置づけて、それに対する補償については「立法政策の問題」であるとする判決を1980年1月に下して原告の訴えを退けた。

 第2審の東京高裁も同年5月に地裁の判決を擁護し、判決が確定した。

 日本国憲法下において、生命の損失に対する受忍義務が説かれた初めての司法判断である。

●原爆被爆者対策基本問題懇談会意見書

 訴訟事案ではないが、受忍論が最も規範的な形で適用されたのが、原爆被爆者対策基本問題懇談会(基本懇)の意見書である。

 基本懇設置の直接の契機は、韓国人被爆者・孫振斗が被爆者健康手帳の交付を求めた訴訟の最高裁判決(1978年3月)であった。

 最高裁は原爆被害を招いた戦争に対する国の責任を指摘し、国家補償が適当であると示唆したが、それは、被爆者対策を社会保障制度の枠内に収めることで被害に対する補償責任を否定してきた政府の見解に再考を迫ることになった。

 最高裁判決を受けて、被爆者対策の「基本理念および基本的在り方」を検討するために、79年5月に厚生大臣の私的諮問機関として基本懇が設置され、1980年12月に意見書が提出された。

 意見書では、被爆者対策の基本は「被爆者の福祉の増進を図る」ための社会保障対策であるとして、被害に対する国の法的補償責任は否定された。

 そのうえで、放射線による晩発性の健康被害のみが「特別の犠牲」、つまり「広い意味における国家補償の見地」から補償する対象として認められた。

 加えて、国民は戦争被害を受忍すべしとの規範論が展開されたのである。

●東京空襲集団訴訟・大阪空襲訴訟

 2008年3月に東京地裁で、2008年12月に大阪地裁で提訴された2つの空襲訴訟において受忍論が争点となった。

 戦後60年を過ぎてから上記の2つの集団訴訟が提起された背景には、旧軍人軍属との援護上の格差が憲法違反の域に達しているとの認識があった。

 サンフランシスコ講和条約発効以降、旧軍人軍属とその遺族に対する援護と補償の総額が約50兆円以上に上るのに対して、非戦闘員の空襲被害者には何ら援護や補償の措置がなされていないという差別的扱いについてである。

 しかし、名古屋空襲訴訟の最高裁判決(1987年6月26日の最高裁判決は、被告側の主張通り、受忍論と立法裁量論を併用しながら原告の訴えを退けた)が大きな壁となっているために、受忍論の克服が一つの重要課題として取り組まれた。

 2009年12月14日の東京地裁判決、2011年12月7日の大阪地裁判決および2012年4月25日の東京高裁判決では受忍論が採用されなかったが、2013年1月16日に下された大阪高裁判決においては引用された。