物理学者「久保亮五氏」の育った家庭

 久保亮五(くぼりょうご 1920-95)という物理学者がいました。お亡くなりになってかれこれ30年が経ちます。

 東京大学理学部物理学科名誉教授、1973年には文化勲章を受章とか、1989年「平成」の元号を決める際の学識経験者の一人だったとか、俗っぽいことはここでは措いておきましょう。

 また久保先生本来のライフワークである「非平衡系の理論統計物理学」いわゆる「久保公式」以下の「線形応答理論」など専門の難しい話も、ここでは触れません。

 私は久保先生のご定年後に大学に進みましたので、生前の先生とは、植物園で開かれる物理学教室の園遊会で少しお話しした以上の会話をしたことはありません。

 しかし、私が物理に進むきっかけを作っていただいたり、修士実験のテーマをいただいたりした大恩人であります。

 物理に進むきっかけというのはE.セグレ博士の名著「X線からクオークまで」の素晴らしい翻訳で、この本と南部陽一郎先生の「クオーク」の2冊が水先案内となり、「ファインマン物理学」を知って、大学での専門を物理に決めました。

 そんな人生の選択を応援する、生き生きとした訳文を、久保先生のようなオリジナルな碩学がお書きになるのは、いまの自分の観点から考えても讃嘆尽くせません。

 また、私が修士時代に取り組んだテーマの一つは「金属微粒子の久保効果」の測定というものでした。

 実はうまくいかなかったのですが、この「久保効果」の考え方はその後、全く異なる音楽の分野で非常に生きることになりました。不思議なものです。

 実際、久保先生はピアノをよく弾かれ、甥や姪に「ベートーベンのソナタ、練習したんだけど聴いてよ」などと気軽に声をかけたりもされたと、当の姪御さんからおうかがいしました。

 以下はご親族からうかがった「久保亮五」という人物が育った「家庭教育」のスケッチです。

 久保先生のお父さんは漢学者で台北帝国大学教授でもあった久保天随(1875-1934)、亮五先生が「五」というのは「第5子」だからで、上にはお兄さんが3人ありました。

長男:久保舜一氏は文部省所轄研究所国立教育研究所室長。

次男、久保昌二氏は旧制一高、名古屋大学教授なども務めた物理化学者。

三男:久保啓三氏は農林省水産局から水産庁資料館館長という錚々たる顔ぶれです。

 そんなできる兄貴たちに押しつぶされることもなく、一番下の亮五少年は伸び伸びと実力を発揮され、早くからノーベル物理学賞候補に擬される大業績を上げられました。

「なーんだ、学者一家か、だからみんなできが良かったのだね」とか、誤解しないでいただきたいのです。そこには背景があるのです。

 お父さんの「久保天随」本名・久保得二氏は旧制2高の同級生に高濱清(虚子)があり、帝大漢文科に学び、漢詩人として、また紀行文作家としても田山花袋と並ぶ存在として知られました。

 約20年間は文筆で暮らしつつ専門にも勤しみ、1925年文学博士、29年54歳で新設の台北帝大大学教授として学究生活に戻りました。

 逆に言えば子供の教育に、そんなに手間暇をかけたわけではないでしょう。

 実際、子供たちを教えたのは、久保天随氏自身をも育てたお母さん、「久保まき」夫人だったのです。