祖母が教えた「漢籍」と「和算」

 久保亮五先生のお祖母様「久保まき」さんは、旧松本藩士、中島喜野太夫這季の息女として生まれ、旧高遠藩士の東京府士族、久保譲次氏に嫁ぎます。

 旦那さんが「ジョージ」などとハイカラな名前なのには理由があります。

 もともと「藁科家」に生まれながら、母方の「久保家」の跡継ぎが絶えたので次男の彼が継ぐよう、高遠藩主・内藤頼直が命じて養子に入ったとのこと。

 維新後は慶應義塾に学んで洋学を身に着け、明治初期には文部省名で「地球儀」や「地球全図(暗射図=白地図)」の読み方教科書なども編纂した、まさにグローバル視点の欧風知識人だった。

 その奥方となった「まき」さんは、まさに「武士の娘」「武士の妻」の鑑のような方だったようです。

 後に天随教授となる息子の得二君(長男ですが、実は、夭折した兄夫婦の遺児を養子に受け入れ「得二」となったそうです)も同様だったと思われますが、孫たちもずらりと正座で並ばされ「四書五経」などの「漢籍」と「和算」を、お祖母さん手ずから指導して、学ばされたというのです。

 こういうのは決定的だったことでしょう。おうちで家族が「読み書きそろばん」をしっかり教える・・・の極みのようなことになっていた。

 4男の「亮五くん」は、そういう教育を受けながら、堅苦しいばかりではなかった。

 福沢諭吉に学んだ洋学者で長野の旧開智学校で洋学(英学)舎長、現在の「松本深志高等学校」の全身でもあったお祖父さんの影響でピアノが身近にありました。

 さらに父の末弟で年の近かった伯父、久保正夫氏(1894-1929)がピアノを学ばれ、「論語と和算」の「まき母上」にブラームスを聞かせたりしたようです。

 目を白黒させたかもしれませんし「立派にやっておる」とほめられたかもしれません。

 こういう身近な「ロールモデル」も、とても大切なものです。が、昨今はめっきり少なくなってしまった。

 ちなみに、安倍政権時代に無理やり「ロールモデル」役で気の利いていそうな若者をタレント的に世に出した時期がありました。

 まだ芸能人をやっていますが、軒並み大失敗でした。

 そういう偽物と違い、この久保正夫氏は大変な人材だった。盟友の倉田百三とともに大正期に宗教文学のブームを作りだした兄にも劣らぬ文人、そもそもは哲学者です。

 さらにピアノもよくした。ところが不幸にして30代半ばで早世してしまった。

 亮五君は、実の兄と同様か、それ以上にこの「若いおじさん」が大好きだったのかもしれません。

 さて、この1929年、お父さんの天随先生が台湾帝大に赴任すると一家は台北に移住、ここでは謹厳なお祖母さまの「論語と和算」はなかったようで、亮五君は好きなことに熱中し、ピアノも思う存分弾く少年時代を過ごし、台北で中学に進学します。

 ところが今度はお父さん(天随教授)が逝去してしまいます。亮五君が14歳、「中二病」の年頃に父親を失ったわけです。

 さて、当初は文学か哲学でもやりたい、と亮五少年は語っていたそうです。亡くなった正夫伯父さんは哲学者「フィヒテ」の翻訳でも知られたので、憧れていたのでしょう。

 しかし、帰国後、東京府立第五中学校(現在の都立小石川中等教育学校)に編入後、理系とりわけ「物理学」に進んだのは、物理化学の次兄、昌二氏の影響だったようです。

 かくして亮五君は旧制第一高等学校から帝大理学部物理学科に進学、早くから有産な研究室を率いた久保亮五教授の誕生に続いていくわけです。