女性を家畜として調教する土路の『魔教圏. No.8.』

──しかしSMとは、カップル間の上下関係をむしろ際立たせて、あえて極端なまでに敬ったり、見下したりする気持ちを欲望や快感に切り替える性的遊戯ではありませんか?

河原:SMも色々ですが、寝室の中だけにそれを限定しようというのが吾妻ですね。日常生活では上下関係はダメ。だから男女平等を真剣に願うこととサディストであることは、彼の中では矛盾しなかったのです。

 一方、沼正三、土路草一、古川裕子、それにこの本では取り上げられませんでしたが、天野哲夫などは「人間関係にはやっぱり上下関係があるでしょ」「戦後の民主主義なんて嘘っぱちでしょ」という、理想や建前と現実の落差を見つめようとした作家です。

「民主主義が推進されていても、現実には依然として差別や搾取が続いている現状がある。とりわけそれを行っているのは民主主義を標榜する米国だ。そこを問わずに、男女平等を説いてもちゃんちゃらおかしい」というような態度が若干見られます。

 これは、少し斜に構えた態度ですが、とはいえ占領期の米国支配を考えれば一面では真実でしょう。土路や沼の小説は、米国の水爆実験にまつわる非人道的態度をきっかけに書かれました。

 平等を目指していても達成はなかなか困難だし、平等を達成するための行動が逆に権力者側に利用されることもある。そうした現実を、天野たちはよく理解していたと思います。

 その上で、そんな現実を、いかに受けとめて生き延びていくのかを考えた時、本書で扱ったような告白や文学作品が生まれてくるのだと考えています。

 土路草一は現在は全く無名ですが、当時は非常に人気のあった作家です。作風はかなりハードで、女性を家畜として暴力的に調教する物語です。彼の作品は読者を選びますが、家畜化された女性の生を、被植民地人の生と読み替えると、理解しやすいものになります。

 土路の『魔教圏. No.8.』という小説では、日本で普通に暮らしていた女性たちが誘拐されて、それまでの生活、言語、習慣など、すべてを奪われて、家畜としての新しい生活を強制されます。さらに、自分たちよりも優れているかのような人間が現れて、自分たちを管理していく。植民地支配と同じでしょう?

 土路の作品には、彼が中国出身だったのではないかと推測させる部分があります。もし本当にそうなのであれば、当事者だった可能性もある。植民地支配は当然悪しきものです。人間を家畜化することです。

 しかしそれはそれとして、ずっとそのような境遇を生きてきた人たちにとっては、それが人生とも一致しているわけで、悪夢の過去として全否定して捨て去ることもつらいはずです。

 そうした複雑な感情を、彼は旧宗主国の女性を同じ境遇に落とすという、復讐めいた構造のサディズム小説の形で表現した。