現代的な女性解放論を展開したサディスト・吾妻新

河原:現代では「SMは本人同士の同意があるのであれば問題ない」「プレイ以外の時は、対等な関係を築いている」といった、SMをあくまで性の遊戯として肯定する言説が定着しつつあると思いますが、それを平易な言葉で最初に理論化して書いたのが吾妻新でした。1953年のことです。

 吾妻以前にも、『奇譚クラブ』で「自分たちは性犯罪者や殺人鬼とは違う」「ちゃんと同意がある」「これは愛情表現なのだ」といった主張をする人は存在しましたが、他人を納得させるに足る論理は備えていませんでした。

 それを現代でいうジェンダー論やフェミニズムを踏まえた上で述べたのが吾妻でした。日本でSMが犯罪視されなくなった背景には、彼の存在が大きかったと思います。

 彼の主張は後のSM作家たちにも非常に大きな影響を与えていて、小説家の団鬼六の『花と蛇』なども、「肉体的苦痛を与えて身体を傷つけるのではなく、精神的凌辱を重視する」という吾妻の主張がなければ出てこなかったものだと思います。実際に、団鬼六は吾妻新の書いたものを読んでいたことが後年に確認できます。

──吾妻新は海外の文献を読み込んで、そうした理論を構築していったのだと思いますか。それとも、彼のオリジナルの理論だったのでしょうか?

河原:吾妻は精神医学や性科学に関する海外の本をかなり読んでいます。沼正三もそうですが、『奇譚クラブ』で当時活躍していた人たちは、そうしたものに相当触れています。

 ただ、参照はしていても、かなり批判的な発言もしていて、すべてを信じて取り入れるという感じではないです。吾妻のサディズム理解のベースは、ジグムント・フロイト、ハブロック・エリスらだと思いますが、彼が提唱したサディズムの脱病理化についてはオリジナルの可能性が高いです。

 吾妻が実名の村上信彦名義で発表した『女について 反女性論的考察』という本がありますが、これはジェンダーの構築性について論じた本で、吾妻の男女対等に関する考えが示されているものです。

 戦後のフェミニズムに強い影響を与えたとされる、シモーヌ・ド・ボーヴォワールの『第二の性』と似た主張を含んでいますが、『女について』のほうが2年ほど早く上梓されています。彼は戦後すぐ、かなり現代的な女性解放論を自分で編み出した可能性があります。

 吾妻が先駆者として男女対等論やサディズム論を発表できたのは、『奇譚クラブ』というメディアの存在が大きい。

 世界では、シカゴ、ロンドン等にSMの資料を集めた資料館がありますが、私が調べた限りでは、50年代に200ページ以上もあり、読者投稿を主とする月刊刊行物は残されていません。『奇譚クラブ』は当事者による本格的な投稿雑誌としては世界初だった可能性もあります。